日本の映像業界に欠かせない俳優である斎藤工さん。俳優として忙しい日々を送る一方で、監督として作品を作り、移動映画館のプロジェクトやミニシアターの支援など、一つの立場にとらわれることなく、映画やドラマに熱心に携わってきた。
4年ほど前からは、自身が関わるいくつかの映画の撮影現場で、スタッフや共演者が子どもを預けられる託児所を導入する取り組みも行っている。
背景には、映像業界で働く女性が、出産や育児を機に現場を離れざるを得ない現状に対する違和感があったと斎藤さんは話す。
男性もみな妊娠する可能性のある世界を舞台にした主演ドラマ『ヒヤマケンタロウの妊娠』の現場でも、託児所を設けた。作品のテーマと斎藤さんの思いが重なった、特別な作品になった。
託児所が必要だと考えた理由や、変革が求められる日本の映像業界のこと。斎藤さんが、率直な言葉で語った。
《4月からNetflixで配信が始まった、主演ドラマ『ヒヤマケンタロウの妊娠』。撮影現場には、斎藤さんの発案で託児所が導入され、病児保育や障害児保育などを手がける認定NPO法人「フローレンス」が協力し、ベビーシッターを手配。安全確保の都合などにより期間限定ではあったが、スタッフ数人の子どもを預かった。
託児所が必要だと考えたのは、映画やドラマの撮影現場で働く女性の多くが、妊娠・出産を機に辞めざるを得ないことへの問題意識からだった。》
女性が妊娠・出産した時、育児か仕事かと、二者択一を迫られることにずっと違和感がありました。
映像業界の撮影現場では、妊娠・出産を経て女性が復帰するのは本当に難しい。この仕事を離れざるを得なかった人を、たくさん見てきました。でも、「そういうものだ」と端から思い込んできたのが、この業界。僕もその一部でした。今のままだと、日本の映像業界はさらに多くの才能を失うことになります。
僕自身、幼い頃よく映像制作者の父に撮影現場に連れて行ってもらっていました。そこで父の仕事や、どんな人と一緒に働いているのか知った。父の同僚の子どもたちと交流し、コミュニティが生まれていました。
そういった経験もあって、乖離してしまっている育児と仕事をつなげるための一つが、託児所ではないかと考えました。
《斎藤さんが初めて託児所を設けたのは2018年。その後も自分が携わるいくつかの作品で、自ら提案し実現してきた。日毎に変わる撮影現場。幼い命を預かるには、安全性の確保が欠かせない。スタッフのニーズも聞きながら、より良い方法を模索してきた。
一方で、託児所の導入を「美談」として評価されることに、斎藤さんは複雑な思いも抱くという。》
2018年に自分が監督した作品で、1週間(群馬県の)高崎でロケがありました。小さなお子さんがいるスタッフ数人が撮影に参加し、高崎フィルム・コミッションとベビーシッターさんと連携して、1週間で3人のお子さんを預かりました。費用は制作費から出しました。
行動に移すことで、同じ志をもった人たちと出会い、意見を聞いたり協力したりできた。
ただ、自分がパイオニアというわけではありません。僕自身、安藤サクラさんが朝ドラで主演した際に、NHKに託児所を作られた話を聞いていました。託児の場で実務を担う主役は、ベビーシッターの方々です。
「斎藤工」という固有名詞が先にきてしまうのは、ちゃんとプロジェクトとして浸透していないことの現れでもある。
利用したスタッフの方からは、長い長い感謝のお手紙をいただいたこともありますが、これが一言「ありがとね」で済ませられるくらい、当たり前になってほしい。同じやり方ではなくても、他の撮影現場でも広がり、常態化して初めて意味あるものになっていくと思います。
数年前、ある作品でフランスロケに行った時は、ユニオン(労働組合)があるので、労働時間は8時間、休み時間は2時間。家族を呼んで仕事の合間に団欒の時間があり、家に帰ってからも家族と過ごせる。家族や子どもと過ごすことと仕事とが生活の中に調和していて、このモラルの保たれ方は自然だなと感じました。
託児所を利用した人の中には男性のスタッフもいて、お子さんとの時間が全然もてないという話も聞きました。働いて帰った時には子どもは寝ていて、朝は起きる前に現場に向かう。こういった働き方が、日本の映像業界では「当たり前」とされてきました。
《託児所の取り組みを続ける中で出会ったのが、Netflixとテレビ東京が共同制作するドラマ『ヒヤマケンタロウの妊娠』だった。
斎藤さんが演じるのは、広告代理店で働くエリートの桧山健太郎。独身を謳歌していたが、ある日妊娠が明らかになる。
数としてはマイノリティながら、すべての男性が妊娠・出産の可能性がある世界が舞台。桧山は妊娠をきっかけに、自分たちに向けられる偏見や出産のリスク、職場での疎外感、キャリアとの両立の難しさなど、社会の問題に直面していく。》
難解な役を演じた感覚はなく、「男性だから」というより、自分が目で見てきた、出産に向かう変化や葛藤を作品で表現していきました。母や姉、友人など、妊娠を経験した人のモデルは身近にあり、監督・脚本家の経験も反映されている。性別の違いはあまり感じなかったです。
普段ドラマや映画を見る時も、必ずしも同性に感情移入するわけではなくて。『コーダ あいのうた』や『スウィート17モンスター』など、ティーンエイジャーの女性主人公に感情移入したりするんですよね。昔、姉とおままごとをやっていた時からそうです(笑)。
この作品を観た人にとっても、これまでとは違う角度から、ご自身の職場や家庭、親やパートナーを見つめ直すきっかけになれば。
《ジェンダーの固定観念や子育てとキャリアの両立など、本作で描かれるテーマは、託児所に取り組んできた斎藤さんが抱える問題意識とも通じるものがある。撮影の前には、ジェンダーバイアスに関する講習や、Netflixが導入するリスペクト・トレーニングも受けた。
エンターテインメントや芸術・表現の場も、これまでの労働環境を改善しようとする動きが広がり、作品が無意識の偏見によって作られていないか見直すなど、変化の最中にある今。斎藤さんは、どう感じているのだろうか。》
社会全体が今アップデートの時期を迎えていて、特に映像業界はマストである。待ったなしのタイミングがきています。
リスペクト・トレーニングがどれくらい功を奏しているか。それは個人差があり、あまり意味がないという意見も聞きました。
ただ、僕としては、Netflixのそうした取り組みが現に議題に上っていますし、これまでのやり方に区切りをつけるため、新しい風は確実に必要だったと思います。
一方で、制度を取り入れるだけでは変わらない。託児所も同じです。
作品ごとにスタッフが異なる撮影現場で、もちろんプライベートをすべてオープンにするわけじゃないですが、働く上で、それぞれの生活や体調、家族のこと、お互いをもっと知って、状況を共有した上で協力体制を作れるといいなと。
託児所や講習が広まっても、その根源には「人対人」としてのホスピタリティや寄り添う気持ちが必要。道徳的な部分が欠落していたら、解決にはなりません。
『ヒヤマケンタロウの妊娠』の撮影では、妊娠した際のお腹の大きさや重さを忠実に表現しました。みなさん、大きくなる僕のお腹を「もの」扱いするのではなく、本当に命を授かっているように気遣ってくれました。
僕自身も、自分以上に大事なものがここ(お腹)にあるという感覚で、普段何も考えずに通り過ぎる場所の見え方も変わって、手すりがほしいとか、あれがあれば助かるのに…と考えるようになった。これまで見えていなかったものが見えた。それは大きな経験でした。
映画やドラマはフィクション。でも、そこに何を思うか。作り手が問われている時代だと思います。
《桧山のパートナーは、上野樹里さん演じる亜季。2人にとって妊娠は想定外の出来事だった。フリーライターで仕事に情熱を持つ亜季は、桧山の出産のタイミングで、念願の海外での仕事のオファーが舞い込んでくる。しかし、目の前にある状況に追われる2人。「現実的に考えて」と仕事を断ろうとする亜季に、桧山はこんな言葉をかける。
「俺たちは誰も犠牲になっちゃだめ」「全員の人生を大切にしたい」
2人は会社や周囲の協力を得ながら子育てをし、それぞれが自分らしくいられる生き方を尊重する。》
出産は希望に溢れたことなのに、そこに「犠牲」が共存してしまう社会になってしまっている。そういう当たり前の「犠牲」を見直すタイミングがきていると思います。
「女性だから、男性だから仕方がない」とされてきたこと。「母性・父性」という言葉で括って、その影になって見落とされてきたもの。何を「犠牲」「諦め」と感じるかは当人にしかわかりません。その感情を理解しようと寄り添えれば。
…ただ、自分自身がそういうことをちゃんとできているのか?と問われれば、まだまだできてないことが多い。綺麗な言葉を言いすぎると、自分に違和感を抱くんですが…。
言葉っていくらでも整えられるし演出できる。僕が信頼しているのは、人の行動です。行動だけを自分に対する信頼として生きていきたい。この数年でそう強く思うようになりました。
どんな行動をしたか、というので自分の本当の輪郭をとらえたい。社会全体も、行動が一番説得力をもつ時代になっている気がします。
《映像業界では今、過酷な労働条件や労働環境、ハラスメントや性暴力の問題が表面化し、一刻も早い改革が求められている。
インタビューの最後に「映像業界はどう変わるべきと思うか。どう一緒に変えていきたいか」と尋ねると、斎藤さんは「それについては、今もずっと考えています」と真剣な面持ちで答えた。
そして、「個人的な思い」として、こう言葉を繋いだ。》
僕自身、この業界の問題をちゃんと見れていなかった。そこに複雑な思いがあります。正直今、新しい作品との出会いや創作意欲に対する気持ちが、以前とは変わってきてしまいました。これまでのサイクルに、素直に踏み込めなくなってしまっている感覚がある。
いったんゼロにしないといけないのではないか。局所的に改善・転換をしても、ゆっくりと元に戻って行ってしまうんじゃないか…。
もちろん、真摯に向き合っている素晴らしいフィルムメイカーの方々もたくさんいらっしゃいます。でも、極端なやり方であっても、自分も含めて、これまで中心にはいなかった若い世代や女性に、活躍の場を譲ったほうがいいんじゃないか。5年後・10年後の未来を具体的に見据えて、そこから逆算することが必要なのではないか、と。
ドラマの中で桧山や亜季が出会う人の中には、対岸にいる人、手を差し伸べてくれる人、そして、最初は対岸だと思っていたけれど手を差し伸べてくれる人もいます。
保証はないけれど、でも、希望になるのは、やはり人なのかなと感じます。
亜季が諦めた時に桧山が言う「誰も犠牲になっちゃだめ」という言葉。「白か黒か」と二者択一であるために、誰かが何かを犠牲にしたり我慢したりすることがあるなら、その間の道を選ぶことが大切なのではないか。それが、大袈裟じゃなく本当に必要な未来に繋がるんじゃないかと思います。
<取材・文=若田悠希 @yukiwkt /ハフポスト日本版、撮影=西田香織、ヘアメイク=赤塚修二(メーキャップルーム)、スタイリスト=三田真一(KiKi inc.)>
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「当たり前の“犠牲”を見直す時」斎藤工さんが、撮影現場に「託児所」を作る理由