『忍者ハットリくん』や『笑ゥせぇるすまん』など数々の人気漫画で知られる藤子不二雄Aさんが4月7日、亡くなった。88歳だった。
1931年生まれの藤子さんは生前、戦争を知る世代の一人として、疎開などの体験をメディアに証言していた。
NHKが公開している「戦争証言アーカイブス」に、その記録が残っている。
NHKのインタビューは2005年、藤子さんが71歳の時に放送されたもの。藤子さんは、敗戦が迫る1945年4月11日の出来事を振り返った。
この日の朝日新聞の朝刊には、「彼我本格的な戦闘」「聴け沖縄の鼓動 浮き足立つは恥だ 戦はう(戦おう)最後の一人まで」「新鋭戦闘機“はやて”現る」などの見出しが躍る。
藤子さんは当時11歳で、国民学校の6年生だった。富山県高岡市から、同県山崎村(現・朝日町)に疎開していた。疎開先では、子どもたちが集団で登校していたという。
「校門の前に、竹を何十本も縛って置いてあるんですね。みんな木刀を持っていて、校門に入る前に、100回くらい、ドンドンとそれこそ『米英撃滅』って言いながら叩いて。それをしないと(校内に)入れないようになっていましたね」
「訓練というんですかね、6年生になると、先生がみんなに竹槍を作らせて。竹を切ってきて先端を斜めに切って、そこに油を塗って焼くんですね。そうすると非常に硬くなるんでね。それを講堂で一斉に突く練習をするんですよ」
藤子さんはインタビュー中、画用紙に当時の自身の姿を描き始めた。
坊主頭の少年が、木刀のようなものを両手に持って構えている。国民学校5年生の時に、体育の授業で教わった「遠山(えんざん)の構え」だという。
「目の前の一人(の敵)じゃなくて、何人も一緒に応対できるようにこの構えを教えられたんですね」
当時、藤子さんはすでに漫画を描いていた。
全校生徒が山菜を採りに行く行事の際には、得意の漫画が身を助けたという。
「僕は山に登るのも大変で、どこに何があるか一切わからない。それ(布でできたザック)をいっぱいにしないと学校に帰れないという仕組みになっていて」
「僕がカラでオロオロしていると、メンコ(に似顔絵)を描いてあげたガキ大将が3〜4人呼んで、みんな僕のところに(山菜を)入れてくれてね。ガキ大将ですけど優しい思いもありましてね。それがすごく印象に残っていましたね」
戦争を体験した世代の証言者がまた一人、この世を去った。
NHKの戦争証言アーカイブスには、特集「漫画家の戦争体験」が公開されており、手塚治虫さんや水木しげるさん、やなせたかしさんら故人の漫画家たちの証言が残されている。
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藤子不二雄Aさん「竹槍で一斉に突く練習」。子ども時代の戦争体験、生前に証言していた