「また、夢になったらイヤだもん」
寒風のふきすさむ2月20日夜、故郷の群馬県高崎市のカフェで披露した落語「芝浜」。その最後のセリフをしゃべり終えた噺家の林家つる子さんは割れんばかりの長い拍手を浴びていた。
観客のある女性は目をうるませて、こう口にした。
「感激したぁ……」
つる子さんは客席にこう語りかけた。「私なりにいろんなことを考えながら、おかみさんを主人公にして描き直させて頂きました。まだまだ始まったばかりの挑戦でございます」
「芝浜」は妻の支えで夫が立ち直る夫婦の物語。こんなあらすじだ。
酒におぼれて仕事をしなくなった棒振りの魚屋。妻に朝早く起こされて浜に出ると、大金の入った財布を拾う。これで働かずに暮らせると、酒を飲んで仲間と大騒ぎ。目を覚まして財布のことを尋ねると、「夢を見たんだ」と妻はウソをつく。心を入れ替えて働き出す魚屋。3年後の大晦日、妻に真実を打ち明けられて感謝した。お酌されて久しぶりに酒を飲みかけるがやめる。「また夢になるといけねえ」
落語と出会った中央大学の落語研究会にいたころ、この演目を初めて知ったつる子さん。「温かい噺だなあ」と心に残っていた。噺家になり、前座のころに自分自身が演じることをイメージしはじめた。すると、どうしてもひっかかることがあった。
「おかみさんがどれだけ悩んできたのか、どういう気持ちでウソをついたのか。描かれていないことがいろいろある」
落語界は男性の噺家が圧倒的多数。古典落語でセリフが多めの主な登場人物も男性が占めていることが多い。名作で知られる「芝浜」は立川談志ら歴代の名人たちも手がけ、それぞれの創意工夫があるが、主人公の魚屋目線で語り進めるのは不動のことだった。
しかし、魚屋の仕事に行かなくなった夫を支え、大きなウソをついて改心させるのは妻。「夢」にするようウソをつけと助言した大家もチラッと出てくるだけで、どんな人物なのかはわからない。
「おかみさんを『影の主人公』で終わらせたくない。あえて描かない落語の魅力もあるけど、女性の自分だからこそ描けることをカタチにしてみたい」。大きな挑戦を決意した。
これまでの「芝浜」になかった場面を次々とつくって大胆な組み替えをはかったのは昨年のこと。とんとん拍子で進んだわけではなかった。
「なぜウソをついてまで改心させたのか。夫婦が別れずらい時代で、旦那が働いている方が世間体がいい。その方が楽だからというおかみさんの黒い部分もあったんじゃないか。実は最初はそう思っていたんです」
その見立ては既婚の女性らに話を聞かせてもらうことで覆されていった。たとえば、新型コロナウイルスのワクチンを打ってもらって病院の外に出たら、思いがけず夫が来てくれていて嬉しかったという、ある女性噺家の実話。なにげない日常のなかでほっこりした気持ちにさせてくれる愛情のあり方に思いをはせるようになった。
「突き動かされるのは、やはり愛なんだって感じました。好きで一緒になった。そのころのことが忘れられなくて、戻ってくれるのならと最後の賭けとしてウソをついたんじゃないか。それなら合点がいく。どうして好きになったのかをまず描こうと思いました」
売り物のとびきり美味しいアジと同じように綺麗でまっすぐな目をした魚屋の勝五郎。大家の家で一緒に酒を飲んで2人の距離は近づく。そんなオリジナルのなれそめをつくり上げた。相手のことを考えてボーッとしたり、いつになくオシャレをしたり。恋する女性の姿も織り込んだ。
夫婦になった後、勝五郎が仕事に行き詰まって酒におぼれるようになると、なんで一緒にいるのかわからなくなったと大家に打ち明ける。男性が理想視しがちな夫を見捨てようとしない妻像ではなく、悩み迷う等身大の一人の女性としてのおかみさん。財布を拾ってくると、頼れる大家に相談に乗ってもらい、魚屋の仕事が大好きだったころの姿に戻ってもらいたい一心でウソをつく。
「男性を主人公にしている古典落語に今もわかる感情があるのなら、女性も同じはず。人間の感情は変わらない」。師匠である林家正蔵さんにかけてもらった言葉にも背中を押された。
「女性の落語家にしか出来ないことはきっとある。どんどんやっていくのが、俺はいいと思っているから」
誰とも違う「芝浜」を昨年12月の独演会で披露した。年が明けた今年1月にNHKで番組化されて全国に知られると、女性からうれしい反響が届いた。
「男性社会に合わせようとしてうまくいかずに疲れていたけど、新しい道を作っていっていいんだって思えました」
2月の独演会では、今度は新しい「子は鎹(かすがい)」をお披露目した。一度別れた夫婦の間を息子がつなぎ、家族3人でやり直す物語だ。遊女に入れあげる夫のもとを子を連れて出ていったシングルマザーを主人公にして、おしゃべり好きな友だちや人生の先輩である魚屋の老女ら女性の登場人物も思いきって増やした。女性同士の会話を通して主人公は別れたいきさつを振り返り、また背中を押されていく。
自分の感情、息子の気持ち、別れた夫のいま……。関係修復に向けて、一つひとつのハードルを越えていく道のり。ついに再会して復縁を求められるクライマックスの場面では、このセリフを見事に聴かせた。
「許さない!」
「許さないけど……もう忘れた」
「そんな前のこと、忘れちゃった」
主人公に感情移入した末に紡いだ言葉だった。
「きっと、許せはしないような気がしたんです。でも忘れることはできる。イチからやり直せる。今の時代もそうなんだと思います」」
2人が幸せだったころに買ってもらった紅を唇にさして再会するなど物語に厚みを持たせて、女性目線でハッピーエンドの結末まで描き切った。
「芝浜」と「子は鎹」。古典落語の代表的な名作を女性目線で組み替えただけでなく、クスグリをちりばめて笑いを増やした。はじめて落語を聴く人も親しみやすい一方で、これまでの噺と比べる人からはこんな声が届く。「そういうことだったのか、と分かりました」。共感したという反響は男性からも。噺と向き合って真摯に改作に取り組んだ結果、幅広い層の人たちに楽しんでもらえる間口の広さをあわせ持つようになった。
「女性だから、男性だからというのはいずれはなくなっていくのがいい。でも、そこにあまり固執しすぎない方がいいとも思うんです。私は女性であることに素直でいたい」
もともと男性が築きあげてきた古典落語の世界にひかれて、噺家の道に進んだ。大筋のストーリーは同じでも、演者ごとに個性を出しあうことで磨かれ、引き継がれてきた珠玉の噺の数々。脈々とした流れのなかにあって、自分に出来るのは女性の目線を積極的にとり入れることだと考えている。
「ジェンダー平等」を目標の一つに掲げるSDGsの認知も進むいま、新た試みが受け入れられやすい時代の空気を肌で感じる。古典落語にしばしば登場する遊女たちをクローズアップした改作にも取り組みたい。たとえば「紺屋高尾」や「幾代餅」に出てくる吉原の太夫。そして「子は鎹」で悪女として描かれる夫を奪った遊女の生き様にも関心がある。前代未聞の挑戦はこれからも続く。
入門12年目の34歳。噺家の階級ではまだ二ツ目だ。目標として語るのは「寄席でトリのとれる真打になる」。語り継がれる名人たちもつとめてきた新宿末広亭をはじめとする歴史ある定席のトリを、より磨きをかけた「芝浜」や「子は鎹」で彼女が飾るようになるころ、落語ファンのすそ野はきっと大きく広がっている。
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男性目線の名作を女性を主人公にチェンジ!林家つる子さんが古典落語で起こしたイノベーション