わたしはこの本を書いたことで、自分をフェミニストだと宣言してしまったようなものです。これからはもう、そういう人間だとレッテルを貼られ、何を語っても「そういう人だから」と言われるのでしょうね。
リッケ・ヴィエモーセ
街中の小さな独立系書店で、あるエッセイの著者によるお話会が開催されると知ったとき、すでにチケットは完売していた。残念に思っていると、参加希望者からの問い合わせが相次いだため、2回目のお話会が企画されたと知って、わたしは大急ぎで申し込んだ。
今にも雨が降り出しそうな日曜日の午後。お話会に参加するために自転車を飛ばして書店に到着すると、会場にはもうたくさんの人が集まっていた。コロナ規制が今月1日にほぼすべて解かれ、ほとんど誰もマスクをしていない会場は、久々に人々の熱気につつまれていた。
エッセイの著者は、リッケ・ヴィエモーセ。ジャーナリストであり、夫の転勤先であるアメリカから本帰国した2013年に、この小さな書店を立ち上げた元店主でもある。数年前には書店を売却し、最近はこの本の執筆に取りくんでいたそうだ。
1969年に女の子として生まれ、その後女性として育てられ、生きてきた人生について、ヴィエモーセは今25歳になる娘に宛てた手紙のつもりでこのエッセイを書いた。
1969年にデンマークで生まれた女性が、子どもの頃から現在までの人生を女性として生きてきたなかで感じたこと、と聞けば、70年代の女性解放運動以降、きっと自由にのびやかに、性別に縛られることなく生きてきたのだろうと思えるかもしれない。でも、この本のページをめくればめくるほど、そうでなかったことが伝わってくる。
たとえば、祖母は若い頃に数学に興味があったけれど、両親からは大学で数学を学ぶことは許可されず、主婦学校へ1年通ったあとに、フランス語を学んだこと。著者の母親は教師で、70年代の女性解放運動に参加し、自らをフェミニストと語っていたが、職場では「女性の校長のもとでなんて絶対働きたくない」という同僚がいたり、親戚の集まりでは、若い女性の意見は男性たちから相手にされず、苛立ちや悲しい思いをしていたこと。
さらに同じ頃幼かった著者は、祖父母の家で、弟が祖父とトラクターに乗っているあいだ、祖母と夕飯の支度や片付けをしなければいけなかったこと。食卓で祖父が「おい、もうバターはないのか?」と言えば、祖母がさっと立ち上がり、キッチンへ取りにいったこと。こんな記憶が、エッセーの前半でいくつも紹介されている。
ちょっと待って、これはわたしの祖母や母の記憶、さらにはわたし自身の記憶とそんなにかわらないよ、と読みながらわたしは思う。著者の体験として描かれている祖父母や親戚の言動、女性たちの反応などはリアルに想像できてしまう。
ヴィエモーセは20代前半にジャーナリストとして学校を卒業した後、2つ年上の恋人に付き添ってモスクワに旅立つ。その後夫となったこの恋人は、学生時代の実習先であった大手の新聞社に入社し、記者としてすぐに海外派遣された。入社前から、彼は新聞社の凄腕上司から目をかけられていた男子学生のひとりだった(目をかけられていたのは男子学生だけだった)。一方、ヴィエモーセは、モスクワで暮らしながらなんとか手にしたデンマークの全国紙のフリーランス記者として、仕事をこつこつと始める。報酬は、住居やビザを与えられた夫のそれと比べようもないほど微々たるものだった。その数年後に出産。今度は育児に支障のない範囲で働くようになる。
その後、デンマークへ帰国してからも、ヴィエモーセはいつ帰宅するかわからない、出張も多い夫に家事や育児を頼ることもできず、再就職先でも時短で働くようになる。自分が忙しいときには、せめて夫に少しでも早めに子どもを迎えに行ってほしいと言っても、夫は子どもたちが保育園に長く滞在することは特に問題だとは思わない、君もしっかり働けば良いと言ったという。どんどん出世し、めいっぱい働く夫を横目に見ながら、なぜわたしには同じことができないのだろう、子育てと仕事、そのどちらにも満足したいなんて無理なのだろうかと、悔しさや虚しさ、罪悪感を感じる日々であった。
そんなヴィエモーセも、自分の状況は、単に自分には能力がなかったから、というだけではないのかもしれないと思うようになる。社会にも同じような特徴が表れていることに、徐々に気づき始めたからだ。
たとえば、自分が学生の頃、大学の文学部のある授業で扱われた作品121選のうち、女性作家の作品は16作しかなかったこと。教授らのほとんどは男性であったこと。ノーベル文学賞は女性の受章者が多いと言われているが、過去118人のうち、女性は16人しかいないこと。
男性は女性が著者である本を読むことが少ないこと。友人でもある男性詩人が、自ら大きな影響を受けたという作品を紹介している本のなかで、女性の著者による作品は、34冊中2冊しかなかったこと。彼は女性の作品は、感傷的で憂鬱なものが多いという印象だと語ったこと。
2004年にデンマークの義務教育、中等教育で読んでおくべきデンマーク文学作品として政府が選定したデンマーク人作家14人のうち、女性はただひとりしか選ばれていなかったこと。その選出をした委員も半数以上が男性であったこと。
2020年、ハリウッド映画トップ100選に選ばれた映画のうち、女性の監督はたった16人であったこと。しかもその数は歴代最多で、2018年には4人しかいなかったこと。
大学を卒業するまで、自分が女性だから差別を受けたと感じたことはなかったとヴィエモーセはいう。それでも、大人になり、自分の状況をふり返り、社会の現状に目を向けてみると、男性と女性でちがいがあったことに気づく。それをなにかの弾みに夫や友人らに話せば、周りの人々からはそんな話は楽しい雰囲気をこわすとため息をつかれたり、ときには友人を失ったり、また人によってはいい加減にしろと激怒する人もいたのだという。
この本を書いていて一番怖かったのは、わたしが自分で自分を犠牲者に仕立て上げている、という批判を受けることでした。
お話会でそう語っていたヴィエモーセは、2020年にデンマークの#MeTooの火付け役でもあるソフィ・リンデが、18歳の頃、テレビ業界の大物男性から「オレのあそこを舐めなかったら、おまえのキャリアなんかぶっつぶしてやる。それでおまえは終わりだ」と言われたときのことを、あるコメディショーの司会者として立った舞台で暴露したエピソードと、その後の出来事について話した。
自分の受けた扱いや境遇について嘆くことは、デンマークでは「恨み辛みが多い」「自分で自分を弱者にしている」と批判されることが多い。自分の人生は自分で選べるもので、不満なら違う選択だってできる、これほどまでにジェンダー平等が整っている北欧の国で、今更大の大人が何を嘆いているんだと。こういった言葉は、男性だけでなく、女性からも聞かれる。また、男性中心の業界で数少ない女性として、男性と肩を並べキャリアを築いている女性たちからは「女性差別なんて経験したことはない」といった言葉が発せられることも多いのだそうだ。大変な努力をしている彼女たちは、自分が女性であることを意識するなんて不利なことでしかないと思っているのかもしれないとヴィエモーセはいう。女性でも能力があれば評価されると信じている女性たちは、女性の後輩たちのために道を切り開いていこうと考えることなどないのかもしれないと。
確かに、ヴィエモーセは、自分の弱さをさらけ出しているだけなのかもしれない。エッセーでは最後までもやもやした彼女の体験が綴られている。それは、子育てをワンオペで続けながら必死に仕事を続けてきた女性、自分で新刊書店を立ち上げ、軌道に乗せた強い女性の物語ではない。そういう切り口だってできたのに、彼女はそれとは別の語りを選んだ。
彼女の言うように、恵まれた境遇のくせに甘えているだけだと苛立ちを感じる人や、能力のなさを他人のせいにするなと批判する人もいるかもしれない。でも同時に、彼女自身が立ち上げたこの書店には、今、彼女の話を聞きたいと多くの女性たちが集まっている。小さなイベント会場には入りきれずに、お話会は2回にわたって開かれている。今後は読書会も企画されている。他の書店でも大きく紹介されているこのエッセーは、ヴィエモーセが不安に思う以上に、多くの女性たちの心に響くものがあるのだろう。
フェミニズムやセクシズムは、レイシズムとともに、デンマーク社会で厳しい言葉が交わされる話題だ。SNSには、ポリコレなんてぶっ壊せと言わんばかりに、強者が弱者を切り捨てるような意見が散見し、多くの人々がそれに賛同したり、弱さをあらわにする人々を排除していくことも多い。それを十分わかっていながら、ヴィエモーセは自分の弱さを言葉にした。そして、対話をしていきたいという。「今後何を言っても、彼女はフェミニストだからと言われるだけかもしれない」と感じながらも、それでもヴィエモーセは、静かに前に進む。これは、強い物語を語るより勇気のいることだ。自分の弱さをさらけ出し、次世代を生きる人々がちがった現実を生きていけるよう願うこと。強くなくても、わたしたちにはできることがある。ヴィエモーセはそれを静かにわたしに教えてくれた。
“Nu taler jeg -Brev til min datter” Rikke Viemose (2022) Grif
(2022年2月8日のさわひろあやさんのnote掲載記事「そのフェミニストは自分の弱さをさらけ出す勇気のある人だった」より転載)
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
「彼女はフェミニストだから」と言われても。デンマークの作家が教えてくれたこと