学生時代に著した小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞。参院議員、衆院議員を長年務め、東京都知事に転身ーー。
作家としても、政治家としても知られる石原慎太郎さんが2月1日、亡くなったことがわかった。89歳だった。NHKなどが報じた。
保守派の論客として知られ、歯に衣着せぬ発言がたびたび“石原節”として注目された石原さん。
その歩みを振り返る。
石原さんは1932年、神戸市生まれ。一橋大在学中の1956年に発表した小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞した。“昭和生まれ”初の芥川賞の受賞だった。
映画化された「太陽の季節」に出演し、後に国民的スターとなった石原裕次郎さんは実の弟。自民党幹事長を務めた伸晃氏と衆院議員の宏高氏、俳優で気象予報士の良純氏の父親としても知られている。
石原さんは30代だった1968年、参院選で自民党から初当選。1972年には衆議院に転じ、以降8回連続で当選した。
環境庁長官や運輸大臣を歴任し、1989年には自民党総裁選に立候補するものの、敗れた。1995年、議員辞職。国会議員のかたわら、執筆活動も継続しており、「化石の森」(70年)や「生還」(88年)などの作品を発表した。
1996年に発表した、裕次郎さんを題材にした「弟」はベストセラーとなり、盛田昭夫氏との共著「NOと言える日本人」(89年)は話題となった。
1999年の東京都知事選に立候補し、初当選。2012年10月に4期目の任期途中に辞職を表明するまで、約13年務めた。
都知事時代の2012年4月には、中国が領有権を主張している沖縄県の尖閣諸島について、「東京都はあの尖閣諸島を買います。東京が尖閣諸島を守ります」などと発言し、東京都が購入する考えを表明。当時は民主党政権時代で、外交問題に発展するなど物議をかもした。
東日本大震災後の2011年3月には、「津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。これはやっぱり天罰だと思う」などと述べ、後に謝罪し、撤回したこともある。
都知事辞任後は、新党を結成。「太陽の党」共同代表を務め、当時大阪市長だった橋下徹氏率いる日本維新の会と合流し、2012年の衆院選で国政に復帰。17年ぶりの国政復帰だった。
その2年後の2014年に政界を引退。その際、会見した石原氏はこんな言葉を残している。
『いくつで死ぬか知りませんが、間も無く死ぬんでしょうけどね。
死ぬまではやっぱり、言いたいこと言って、やりたいことをやって人から憎まれて死にたいと思います』
時に物議をかもした、“石原節”を貫いた生涯だった。
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石原慎太郎さん死去。「死ぬまで言いたいこと言う」…“石原節”と歩んだ89年の生涯