Instagramを使うことは私にとって、自分を無能に感じ、圧倒され、憂鬱になることを全て同時に達成してくれる、最も都合の良い手段であることがわかってきた。
私がインスタントのマカロニ&チーズの箱を開けている間に、Instagramでよく見る母親たちは、子どものために素敵なプラントベース(植物性のものでできた)の食事を作っている。私が40歳でこれからのキャリアを悩んでいる間に、Instagramで目にする起業者たちは、25歳で事業を成功させ、何百万ドルも稼いでいる。私が自分に特筆すべき点がないと感じている間に、Instagramでは、私と同じ黒人で同年代の女性たちは、輝きを放ち活躍している。
「Instagramはフェイク」と友人たちは言いながら、ひっきりなしにInstagramのフィードをスクロールする。でも、Instagram上の見せかけの喜びがいくらばかげていても、その人たちは少なくとも、その人工的な幸せを作り出すエネルギーがある。一方私は、そんな余力はほとんどない。
私は記憶にある限り、慢性的な軽度のうつ病に悩まされてきた。それは、世界を薄い灰色で見ているのに似ている。気分が良いフリをするためだけに、運動をして、セラピストに会い、正しい食生活を心がけ、自己啓発本を読み、瞑想し、セージを焚いてチャクラを浄化し、時には薬を飲むこともある(これまで全く効いたことがないが)。
残念なことに、これらの半分はできないことが多いから、自分がコントロールしやすいことに焦点を当てるのがベストだと思っている。それは、自分のトリガーを知り、それをかわすこと。そして最近のトリガーは、私が知っているすべての人が常に利用しているInstagramだ。
うつ病はさておき、私の生活はなかなか良い。私には素晴らしい夫に2人の子ども、そして友人がいて、大好きな海辺のコミュニティに住んでいる。でも、うつ病は人生の良い部分に目を向けるのを困難にする。Instagramで完璧そうに見える人々の人生と比べてしまった日には、まさに不可能になる。
誰もが幸せそうに見える世界と歪んで見える自分の存在のバランスをとることは、私がうつ病と付き合うのを、いつも以上に困難にしていた。
そこで私は、2020年6月から、Instagramアプリから離れることにした。その当初は、アプリ以外に自分が何を手放すことになるのかは、気づいていなかった…。
新型コロナウイルスの感染が拡大している間、私は女友達と、毎週Zoomで楽しい時間を過ごし、必要としていた人間的なつながりを楽しんだ。
その画面上のおしゃべりでさえ、Instagram中心に会話が展開する。例えば、「誰々の何々に関する投稿見た?」とか、「先週、AがBのフォローを解除したみたい」といった噂話だったり、「彼ら、同じホテルに泊まってるんじゃない?写真の床の模様が一緒だよ!」といった調査的なものまで様々だ。
その間、私は予習し忘れた学生のように不安になりながら、文脈の手がかりを探し、質問しながら話を聞いている。みんなは常にアップデートされるソーシャルメディアのフィードのおかげで、答えを知っているのだ。
Instagramを見ていることを前提とせず会話できる日々を恋しく思う。でも私の友達グループの中では、現実世界が停止すると、Instagramがその代わりとなり、それは避けることができない。
ソーシャルメディアというプラットフォームとの関係を、改善する方法があるのではないか、と思った。
そこである日私は、不快な人をフォローするのを辞め、実際の友達と、ウェルネスブランド、意欲を駆り立ててくれる演説者、コメディアンなどだけをフォローすることにした。数日間、「いいね!」「フォロー」と「コメント」を適切に使い、SNSとの関係改善を試みた。でもその行為で、私は結果的に疲労し、息詰まり、くだらない、と感じた。その時、私は自分の直感を尊重し、Instagramに無期限の休みを与えることにした。
まずは数週間、そして数カ月間とInstagram休暇を続けた。すると、愛していたものに平和を見出した。夫や子どもたち、文章を書くこと、自然を感じることや、外の世界に常に中断されずに、静かで明快な心でいることを楽しでいた。
自分で与えたこのInstagram休暇を、内向的な私は喜んでいた。しかし、休暇期間が長くなるにつれ、オフラインの世捨て人としての意図しない結果に気づき始めた。
私のソーシャルメディアへの不安は、現実の孤独によって置き換えられたのだ。そして時に、どちらを選べば良いのかさえ分からなくなった。
友人がすでに世界に公開した写真を、私に直接メールしてくれるわけがない。送ってくれたDMを見なかったのは自分なのに、なんでソーシャルディスタンスをとったピクニックに誘ってくれなかったのか、なんて責めることもできない。
少しづつ、私は友達だと思っていた人たちと疎遠になっていった。初対面の人に気軽にInstagramのハンドルネームを聞かれても固まってしまい、代わりに電話番号を教える時はぎこちなくなってしまう。
ソーシャルメディアが広く普及した今、常に蓄積されるデジタル記録を持っていない私は、インターネットを恐れる、滑稽な老婆のようだ。
私は、うつ病と闘っていることをあまり人に話したことがない。でも、ソーシャルメディアからの長期休暇を説明するにあたって、ある意味「カミングアウト」せざるを得なくなった。
自分が精神疾患を患っていることを告白することは、考えるだけでうつ病のエピソードを増やすに十分すぎるほどだ。それは私にとって恥ずかしく、強い黒人女性としての自己イメージからは切り離れたもの。でも、幸か不幸か、私はうつ病と長く闘ってきたため、うつ病は強さとは関係ないことを知っている。自分自身をケアするために必要なことを全てやることが重要なのだ。
友人や家族には、私が投稿に「いいね!」を押さなかったり、絵文字を使ってコメントしない事、Instagram Liveに参加しないことは、彼らに対する侮辱ではないことを理解してほしい。これは、自分自身のために必要なことなのだ…少なくとも今は。安全な場所に自分の心を置くことが、真に大事な目標なのだ。
「ソーシャルメディアは、私を良い気分にさせないんだよね」。最近、親しい友人に、なぜ彼女の投稿にコメントしないのか説明するために使った言葉だ。
安心したことに、彼女はただ、「そう、毒だよね」と答えた。
そして、私が待ち望んでいたように、私たちはInstagramが存在しない世界に住むかのように、2人で顔を合わせて会話をした。
ハフポストUS版の記事を翻訳・編集・加筆しました。
ラリンダ・ハーヴィー・スミスは、カリフォルニア州サンタモニカに住むフリーランスのライター兼作家です。Twitterの@ralindaで彼女をフォローできます。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
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