過日、日本では衆議院選挙が行われた。様々な争点があったが、現代日本の選挙で常に問題視される投票率はまたも大きな改善は見られなかった。
民主主義は、国民が主権を持つ政治体制のことなので、そもそも国民の政治参加意欲が低いという事態は、民主主義の機能不全を引き起こす。だが、表向きの投票率が高くなりさえすれば、政治参加の意思が高いと言えるかどうか。そもそも、政治に参加するとはどういうことか、その前に、政治や行政の「具体的な形」を私たちはどの程度わかっているのだろうか。
その行政の「具体的な形」を見せてくれる映画が、11月12日から公開されるフレデリック・ワイズマン監督の最新作『ボストン市庁舎』だ。この映画は、ボストン市政の多岐にわたる日常業務をカメラに収めている。相談センターでひっきりなしに鳴る電話に対応するスタッフ、ネズミ駆除や建設現場の防火・防水対策のチェック、ゴミ収集、予算配分の会議や様々なコミュニティの会合などの仕事ぶりを、ナレーションも音楽もテロップもなしに映し出す。
ワイズマン監督は、これまで50本近いドキュメンタリー映画を制作し、アメリカ社会の様々な組織や制度を写し取ってきた。そもそも、行政とは何をするのか、それが私たちの生活にどう関わっているのかを明らかにするこの映画の魅力を、ワイズマン監督本人へのインタビューで得られた言葉と一緒に紹介してみたい。
この映画では、派手な事件は起こらない。上映時間が4時間34分もあるのだが、全体の4分の1くらいは人々の対話のシーンで、それ以外は市政の日常業務を淡々と映し出す。
付きっきりで行政施設に張り付けば、事件の一つにでも遭遇するだろう、だが、ワイズマン監督の映画にはいつも事件らしい事件は起きない。その理由は「ごく普通の日常業務や生活の中に大切なものがあるから」だと監督は語る。
コロナ禍のような大きな事象が発生した時、行政の存在がクローズアップされる。コロナ対策の地域ごとの違いと感染拡大状況の差異を見て、地方行政の大切さを改めて実感した人も多いだろう。しかし、行政というのは事件が起きた時だけ仕事をしているわけではなく、常時稼働しているものだ。
ワイズマン監督は、市庁舎を題材に選んだ理由をこう語る。
「私はこれまで様々な制度や組織を撮ってきましたが、それらを全てコントロールする立場が市政なわけです。警察、社会福祉、公営住宅、教育現場など、それらの組織は市の決めたポリシーに沿って運営されているわけですから、それらの上部組織である市庁舎を撮ればきっと面白いものになると思いましたし、私のこれまでの作品とのつながりもできて理解が深まると考えました」
警察も学校も、福祉現場も、そうした人々の生活にかかわる組織は、ある意味政治によって大きく左右されるのだということが、この映画を観るとよくわかる。
例えば、映画で住居からの立ち退きを防止するための法令化を検討する会議が映されている。この会議は、貧困家庭の運命を大きく左右するだろう。さらに、ホームレスのためのシェルターの確保の問題を議論する別の会議や、古い住居に住みつくネズミ対策の現場もカメラは映し出す。それらの生活の現場の問題点は、全て政治にかかわることだとこの映画は伝えている。
ワイズマン監督の映画は、いつも作品の中心となる人物が存在しない。今回の映画も同様のスタイルで作られているが、当時のボストン市長であるマーティン・ウォルシュ氏は頻繁に画面に登場する。
市長は行政の要なので、多く登場するのは当然だが、これだけ一人の人物をたくさん登場させるのは、彼にしては珍しい。だが、ワイズマン監督は、ウォルシュ氏を特別に追いかけたわけではないのだと言う。
「単純にウォルシュ氏を追いかけると、色々な市民に出会えるのです。例えば、彼はロックスベリーという町のお年寄りの集まりに出席したり、退役軍人やラティーノ労働者の会議など、いろいろな市民の集まりに出席していたことの結果として、彼もたくさん画面に出ているのです」
つまり、ウォルシュ市長は、それだけ市民に向き合っていたのだろう。彼は、電話詐欺の対策を話し合う高齢者の会合で、困ったことがあれば自分の部屋直通のコールセンターに相談してほしい、街で見かけたら声をかけてほしい、もし車で通り過ぎてしまっても、引き返して話を聞きますと高齢者たちに伝える。
また、退役軍人の集まりに出席した際、彼は元軍人たちの心の傷を、自身のアルコール依存の経験に重ねるように語る。政治家がアルコール依存のような、ネガティブに捉えられかねない話をカメラの前で開陳するのは、とても珍しいことではないだろうか。
ウォルシュ氏のオープンで正直な姿勢は、現代日本の政治に慣れきってしまった私たちには新鮮に映る。
そもそも、行政がこのような大規模なドキュメンタリー撮影を許可していることが驚きだ。ワイズマン監督は、他の行政にも撮影オファーを出したが、返事をくれたのはボストンだけだったそうだ。
ちなみに、ウォルシュ氏は、今年の3月からバイデン政権の労働長官に抜擢された。後任は黒人女性の市議会議長キム・ジェイニー氏が担当していたが、つい先日市長選挙が実施され、台湾系2世の36歳ミシェル・ウー氏が当選した。この映画にも多くの人種が登場するが、なぜ彼女のような人種的マイノリティがボストンでは市長に当選可能なのか、この映画を観るとよくわかる。
映画はNAACP(全米黒人地位向上委員会)やラテン・コミュニティ、ベトナム系労働者や障がい者雇用を推進する企業のパーティ、同性カップルの結婚式など、数多くのマイノリティの姿も捉え、彼ら・彼女らとの対話を欠かさないウォルシュ氏の姿を捉えている。
この映画は、とにかく対話のシーンが多い。例えばドーチェスターという地区に大麻ショップを出店しようとする事業者(ベトナム系の男性だ)と地域住民の会合シーンだけで26分ある。しかも、その会議では特に結論は出ない。教育委員会の審議では、年々増加する生徒の数に学校側の設備が追いつかない現状が議論されるが、すぐに解決できそうにない。
そんな面倒で退屈そうな会議も、ワイズマン監督にかかればエキサイティングなシーンに変貌する。会議を面白く見せる秘訣を聞いたら、ワイズマン監督はそこには編集のマジックがあると言う。「実際には2時間以上あった会議を26分に凝縮してみせています。そこにはドキュメンタリーのある種のフィクション性がある」のだと語る。
しかしそのおかげで、面倒で退屈そうな議論がとても大切なものに見える。それによって、民主主義には「こういう地道な話し合いがやっぱり大事だよね」という強烈な納得感が生まれている。
映画の最後に、ウォルシュ氏は、「市長の仕事は市民に扉を開くこと」だと語る。この映画には、それに答えて市民たちが積極的に参加している様子が描かれている。日本の政治は私たちに扉を開いてくれているだろうか、そして、開いた扉に私たち市民はきちんと気が付けているのだろうか。『ボストン市庁舎』は、観る人にそんなことを考えさせてくれる作品だ。
オリジナルサイトで読む : ハフィントンポスト
私たちの生活すべてが政治とつながっている 『ボストン市庁舎』が描く民主主義