努力と成果がものを言う「能力主義(メリトクラシー)」に潜む問題点と、日本社会にはびこる自己責任論について、『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)の著者であるハーバード大学のマイケル・サンデル教授と、小説家の平野啓一郎さんが60分にわたって繰り広げたハフポスト日本版主催の特別対談。
ハフポストでは、サンデル教授と平野さんの約60分に及ぶ対談のスクリプトを【全文公開】する。
後編にあたる本記事では、能力主義の弊害を乗り越えるためには一体どうすればいいのか、という問いに対して2人がそれぞれの立場で持論を展開する。
(※記事化にあたり発言を一部再編集しています)
対談全文・前編はこちら⇒https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6163f87ae4b0196444269c00
対談番組のアーカイブはこちら⇒https://www.youtube.com/watch?v=iugjCPB3oz4
平野啓一郎さんさん(以下「平野さん」):
ではここから、能力主義がもたらす課題をどう克服していくのかという議題に移っていきたいと思います。
サンデルさんはご著書の中でいくつかの解決策を提案されていますが、そのうちの一つに「くじ」というものがあります。
実は日本の国立大学の附属小中学校の入試では、伝統的に抽選が導入されているケースがあります。
これが本当に機能的なのかということに関してはやや懐疑的な議論もあります。
くじがあっても結局そこに至るまでに、子どもたちは非常に猛勉強させられますし、保護者の過剰な介入(ペアレンティング)ということは起きています。
それに、勉強して尚かつくじで合格した人たちは、謙虚になるどころか「自分たちは実力もあり、しかも運もある」といった具合にますます人々を見下すようになるのではないでしょうか。
逆に、しっかりと勉強してきた人が、いくつもの試験を受けて全てくじで落ちてしまったならば、人生に対して非常に屈折した敗北感をもったり、世の中に対して不合理を覚え、シニカルな感情を抱いてしまったりするんじゃないかと思うんです。
サンデルさんが提案している「くじ」というアイデアについて改めてご説明いただけますか。
マイケル・サンデル教授(以下「サンデル教授」):
非常に重要な問いですね。
もちろん、私は運命論を推進したいわけではありません。運の役割を強調することで、人間の主体性、つまり自分の未来をある程度形作っていく大切さを否定し、拒絶したいわけではないのです。
くじの提案と、自分たちの運命が単に人間のコントロールを超えたものだという考え方を区別すべきだとのご指摘は正しいと思います。
私が、くじ導入の提案によって解決を試みた問題点についてお話しましょう。
高等教育についてみると、アメリカだけでなく日本にも当てはまると思いますが、東京大学やハーバード大学のようなトップ大学の入試で高得点を取り合格した生徒は、裕福な家庭出身であることが多いです。偏って多いといえます。
アメリカのトップ100大学では、(所得規模で)上位25%の豊かな家庭出身の学生が70%を占めます。70%ですよ。
一方、貧困家庭出身の学生はどのくらいだと思いますか?
わずか3%ほどです。これが誰でも入学を志願できる状況下における事実です。
日本のトップ大学の家庭状況についても同様の統計を目にしたことがあります。間違っていたら教えてほしいのですが、アメリカ同様、日本もまた、トップ大学の学生は裕福な家庭出身者に偏っている印象があります。
能力主義社会において、人生のチャンスがトップ大学の入試合格にかかっている場合、弊害の一つが若者にかかるすさまじいプレッシャーです。
入試に向けて詰め込み勉強させる塾に通い、親や教師たちから好成績を取るようプレッシャーにさらされることもある。
幼い頃からのこうした激しいプレッシャーは、特に高校生など若い世代にとって有害です。
この激しいプレッシャーが、入試で合格した学生にとっても、人生の成功も失敗もすべてが自分の努力にかかっているという考えを植え付けることになります。入学する頃には、合格した生徒たちは、自分の懸命な努力こそが合格を勝ち取ったと信じるようになることでしょう。
そして入試で不合格になった学生は「自分のせいで失敗した」「自分の努力が足りなかった」というふうに信じるようになってしまう。
そこで私はくじを提案したのです。
(ハーバード大の)入試に合格した自分の教え子たちに、入試がうまくいったのは運が大いに関わっていたことに気づいてほしいという一心で。
同時に、入試で不合格だった学生にも、自分のコントロールを超えた複数の要因が関与したと知ってほしいと思っています。不合格に対する責任は自分にだけあるのではないと。
私は、ハーバードやスタンフォード、東京大学のような大学の入試委員会が、学びの恩恵を受ける基準を十分満たし、しっかり勉強でき、同級生の学びにも貢献できる学生を、数万人の受験生の中から選んだ上で、くじで合否を決めることを提案しました。そのグループは全体のうち1万人か、2万、あるいは3万程度になるでしょう。
彼らにくじ引きを提案することで、少なくともそのグループに属する受験生やその親たちに、全ては努力次第ではなく、いかなる場合にも必ず運が関与することに気づかせるのです。
くじは、運の要素を浮き彫りにするでしょう。
また、一点補足として学生が学力とまったく無関係に合格できるとすれば、くじは機能しないということも付け足しておきます。なぜならそれでは教育そのものが持つ恩恵を受けられないからです。
しかし、一定以上の学力水準が確保されているなら、私はくじを入試に導入します。
これは賛否両論のある提案で、私が勤める大学の多くの人や、ほとんどのアメリカの大学で却下されたアイデアです。
平野さんはどうお考えになりますか。
平野さん:
非常に興味深いアイディアだと思っています。実はこれまで国立大学の附属校にくじが導入されている理由がよくわからなかったのですが、サンデルさんのお話でよくわかりました。
日本は少子高齢化で子どもの数がどんどん少なくなっていっているので、ビジネスとしての教育産業では、ますます高収入の親の家庭からたくさんお金を取らないと、経営が成り立たなくなるという状況があります。高学歴高収入の家庭の子どもたちはますます塾の課題が増えていって、今おっしゃったような状況に追い詰められていくという可能性はあると思います。
ですから実は、「勝ち組」と言われているような人たちも決して幸せじゃない状況。彼女ら彼らが努力を強調したくなる気持ちというのも、ある意味よくわかるんですね。
ここで僕が非常に難しいと感じるのは、子どもに教育をしていく時にどの程度、君の人生は努力次第で切り拓けるんだということを教えていいのか。あるいはどこかで運命的なものにいつも支配されているのだから、それに打ち勝つことは必ずしもできないということを教えていくのか、という点です。
僕たちは未来に向けては「自分たちはやればできるんだ」ということをできれば信じたい。しかし、そう信じれば信じるほど、うまくいかなかった時には、やればできたはずなのに…という後悔が非常に強くなってしまうわけです。
その意味では、未来に対して運命論というのはあまり希望がないのですが、自分の過去を受け入れていく時には、運命論の方が心を慰めてくれるという一面もある気がします。実は『マチネの終わりに』という小説でもそれについて書いたところでした。
平野さん:
せっかくなので話を続けたいのですが、もう一つ別のアイデアとしてサンデルさんがどんな職業にも労働の尊厳を認め、共通善への貢献で評価すべきだとおっしゃっている点には本当に賛成で心から同意します。
※編集部注:「共通善」とは、個人や一部の集団にとっての利益ではなく、自分が属する共同体全体への利益のこと。またそれに配慮し献身する態度。
本の中では、税負担の対象を労働から消費と投機へ移行させるというアイデアを書かれていて、これも議論を呼んだのではないかと推測します。投機・投資に課税するのは僕も大賛成ですが、消費に税負担を移行させることに関しては、累進課税が適用される所得税と違って消費税は逆累進性が高くむしろ貧困層を苦しめると考えられています。
この辺りの「分配」というところについてはどのようにお考えでしょうか。
サンデル教授:
私は、納められる人がより多く納めるという累進課税を支持しています。累進課税の原則は望ましく公平ですが、一点、考慮すべきことを追加したいと思います。
日本に当てはまらないようなら指摘していただきたいのですが、多くの国で、労働による報酬に対する課税率は、株式配当金やキャピタルゲイン(株などの売却益)に対する課税率よりも高く設定されています。
私が自著で提案したのは、これが望ましいことかどうか、公共の議論を行うことです。
なぜなら、市場主導で競争の激しい能力主義社会に代わるのは、労働の尊厳を取り戻し肯定することに重点を置く社会だと考えるからです。労働の尊厳というのは、大学や専門職の学位を持つ人だけでなく、すべての人によって体現されるべきです。
特にここ数十年の間、この社会はバランス感覚を失っている。金融や金融投機が存在感を増す一方、経済成長や雇用を生み出す企業への投資はしばしば犠牲にされてきました。
そこで私は、ウォール街で行われているような投機的な金融工学をやめさせるべきではないかということ、そして、一般的な労働者を含めて、経済に対して具体的で明らかな貢献をしている人たちにより大きな報酬と名誉、社会的尊敬を払うべきではないかということについて、少なくとも公共の議論をすべきだと思います。
パンデミックのさなかに考えたことがあります。パンデミックは以前から存在した不公平を露呈し、問題を更に際立たせました。
その一つが、自宅から働ける人たちは感染するリスクを避けられ、そうできない人たちは職を失うか、ほかの人たちを守りつつ危険にさらされながら働かなくてはならなかったことです。
こうしたことを目の当たりにし、私たちがパンデミックから学んだことがあります。
それは、自宅から働く贅沢を許された人たちが、それまで見下してきた労働者たちにいかに依存していたか気づいたことです。
医療従事者だけではありません。配達員や倉庫の従業員、スーパーの店員、保育士たちもです。
彼らは高給取りでもなく、社会でもっとも尊敬される労働者でもありません。でも私たちはパンデミックの中で彼らを「エッセンシャルワーカー」「キーワーカー」と呼ぶようになりました。
これこそ、彼らの報酬と評価をどうやって仕事の重要性に見合ったものにしていくかという新たな公共の議論の始まりになり得ると思うのです。
「金融投機に報いることをやめて、労働の尊厳を称えることにシフトする」と私が提案しているのは以上のような意味なのです。
平野さん:
あらゆる労働・職業に敬意を払い、その尊厳を認めるべきだというのは僕も完全に同意します。
例えば日本では保育士さんというのは非常に難しく尊い仕事ですが、給料が非常に低い。必ずしも社会の中でそれに見合う評価をされてないということが、よく大きな問題になっています。
彼女ら彼らがやっていることが、投資銀行で働いている人たちよりも価値がないとは僕は全く思わないですし、そこはおっしゃる通り、この社会が解決していかなきゃいけない問題だと思います。
平野さん:
ただし、能力主義をどう克服していくかということに関しては、僕はある意味でサンデルさんと逆ともいえるアイデアを持っています。
というのも、この問題が人々を苦しめているのは、誰かを評価する際に、労働者としての評価の割合が大きすぎるからではないか、と思うんです。
1人の人間には、労働者である側面もあれば、消費者の側面もあり、または誰かの友人であり誰かの親であり子である。あるいはゲームが得意だとか非常に多面的な側面がある。
例えば、たくさん本を読んでいる人がいたとします。本を買うという意味では消費者ですけれども、その感想ブログを書くと、彼の感性が面白いと言って評価されるとします。それは労働ではないけれど、彼の人間性の一部を他人が承認しているということになるわけですね。
労働、職種によって差別しないということはもちろん重要ですが、1人の人間をトータルに肯定する時に、その労働者としての比率をむしろ低下させて、もっとその人を多面的に見て評価する社会になった方が、実は能力主義の弊害を弱められるんじゃないかと思うんです。どう思われますか。
サンデル教授:
非常に重要なポイントだと思います。平野さんのご意見に私もまったく同意見です。この論点は自著の中で十分に強調できていなかったので指摘してくださって嬉しいです。
ご指摘いただいた非常に重要な洞察を議論してみましょう。
価値観の転換や、成功と善き生(good life)の意味の再考にあたって、私たちは2つの価値観を変える必要があります。
1つは労働市場に関してで、これは本の中でも強調しました。
平野さんが挙げた保育士の例についてですが、彼らは高いスキルを持ち、非常に重要な役割であるにもかかわらず、金融機関に勤める人に比べて非常に低い給料しか支払われていません。
私たちは、この民主社会の市民として、経済への貢献と共通善への貢献でもっとも重要なのは何かを、熟考する必要があると思います。
税制や経済システムには、単に市場の審判に依存するのではなく、どんな貢献がもっとも重要なのかを、よりよい方法とより誠実な方法で反映させる必要があると思います。それが保育士の事例です。
そして、私は更にその先の論点でも平野さんに同意します。私たちの労働者としての役割は、人間としての私たちを完全に定義するものではないという、社会的、市民的、そしてより人間的な考察です。
経済に直接ではなくとも、私たちは社会に重要な貢献をしています。仕事を通じてだけでなく、自らの家族や、友情、所属するコミュニティーを通じて、共通善や社会の福祉に対し、非常に重要な役割を持っています。
今日、それらの多くは報酬を伴いません。労働市場には反映されません。
それは私たちが市場主導の能力主義社会に暮らしているからで、私たちは経済的役割で多くの人の価値を計りがちです。そして、これは変えなくてはいけないという平野さんの意見に賛成です。
繰り返しになりますが、経済的役割は、もっと社会的評価や報酬、対価に沿ったものであるべきです。
人の経済的役割と、その社会的価値や報酬、対価はもっと整合性を持つべきです。しかしそれ以上に、家族の一員として、友人として、あるいはコミュニティーの一員として、善き生の一部であり、この社会に暮らすコミュニティーの一部として、人々が行う一つひとつの貢献を評価し、価値を見いだすことが重要です。
価値を分配するのに、純粋に経済的な方法から、より広く市民的で人間的な方法へとシフトすることが重要でしょう。
平野さんが挙げた論点に強く賛同します。自著の中では十分に強調されていませんでした。大切な論点を切り出してくれてありがとうございます。
平野さん:
ありがとうございます。非常に刺激的な議論をさせていただき、最後は建設的な意見をシェアできて僕も非常に幸福に思っております。
もっともっと話したいことはもうたくさんあって、ノートもいっぱいとってきたんですけども、残念ながら時間ということで。
最後に日本の読者の皆さんに改めてサンデルさんからメッセージをいただければと思います。よろしくお願いします。
サンデル教授:
個人的な思いで締めくくりたいと思います。
まず、平野さんありがとうございました。とても豊かで思慮に富んだ対談で、多くを学びました。ぜひいつか直接お会いして、この話の続きがしたいです。
さらに視聴者のみなさんへ。私は日本を再訪して、インタラクティブな対話、講演、議論や対談を通じて再び日本の読者の皆さんと交流できる機会を楽しみにしています。
パンデミックは多くを奪いましたが、私が最も恋しいのは、人間どうしの交流であり、言葉による対話、議論です。日本を訪問する度に、いつも刺激を受けていました。
平野さん、今日は貴重な対話をしてくださり、ありがとうございました。
Source: ハフィントンポスト
東大やハーバードの入試には「くじ」が必要だ。マイケル・サンデル教授が「運の存在」に気づかせようとする理由(対談全文・後編)