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東京オリンピックは、五輪史上初めて、トランスジェンダーを公表したアスリートが出場する大会になる。
ウエイトリフティング女子87キロ超級代表にはニュージーランドのローレル・ハバード選手が出場し、チェルシー・ウルフ選手も自転車競技BMXフリースタイル女子のアメリカ代表補欠に選ばれた。
国際オリンピック委員会(IOC)は2015年に改定したガイドラインで、「血清中テストステロンレベルが一定値以下」「宣言した性自認は4年間変更不可」などトランスジェンダー女性選手が自認する性別の種目に出場するための複数の条件を定めた。
しかしルールに従った出場であっても、トランスジェンダー女性の方が有利ではないか、と反対する声もある。
こういった声に、「トランスジェンダーアスリートが経験してきた苦しさなどに想像が及んでいない現状がある」と話すのは、スポーツの歴史を通して、ジェンダーや人権の研究を続けてきた、中京大学スポーツ科学部の來田享子(らいた・きょうこ)教授だ。
スポーツにおける公平性とは何か。トランスジェンダーアスリートの出場について、來田教授に聞いた。
――トランスジェンダーを公表する選手が初めてオリンピックに出場することに注目が集まっています。
オリンピック・パラリンピックは、他の競技大会とは性格が違います。
世界選手権やワールドカップは、世界で一番は誰かを決める場所ですが、オリパラは、人々が異なる意見を持ち寄り、ともに考えながら、社会の未来を作ろうというムーブメントの一部です。
そしてオリンピック憲章は「いかなる種類の差別も受けることなく」と、明確に定めています。
トランスジェンダー選手の出場に異論はあるかもしれません。しかし、その異論が、差別や偏見を助長するようなものになることは許されません。大会が差別を否定している以上、すべての人を迎え入れて、どういうルールであればお互いが公平と考えられるかを、一緒にチャレンジしていく場所のはずなのです。
ですから、オリンピック・パラリンピックでは、ルールで定められた範囲であれば、排除されることがあっては絶対にいけないのです。
――トランスジェンダーの選手の参加が、社会やスポーツに与える影響はあるでしょうか?
トランスジェンダー女性の選手の出場には、2つの大きな意味があります。1つは、科学的エビデンスを作るよう促す場面が創出されることです。
スポーツ科学はトランスジェンダーの選手の参加に対する公平性の問題に答えられるようなエビデンスを作ろうとしてこなかったと、私は思っています。
競技の中には、用具の重さや距離が性別で異なる場合があります。例えば、ハードル走の距離は男性は110メートルですが、女性は100メートルです。円盤や砲丸などの重さも違います。また、だいぶ修正されたものの、階級別競技で男女の階級の数が異なることもあります。
こういった違いは、スポーツ科学のエビデンスがないままに「大体こうだろう」と決められ、時代や社会の変化に合っているかどうかもあまり検証されていません。
しかしトランスジェンダーのアスリートが加わることで、ジェンダーと公平性に向き合わざるを得ない状況になる。そういった意味でスポーツ科学にとって重要な転機だと思います。
もう1つは、スポーツの可能性です。
スポーツは、トランスジェンダー女性の選手にとって、必ずしも親和性のある場所ではなかったと思うんです。
特に日本の場合、スポーツは非常に男性的な場所でした。ですからトランスジェンダー女性は「マッチョな場所にはいきたくない、スポーツは嫌いです」とおっしゃる方も多い。
しかし今回、その壁を超えてトランスジェンダー女性がオリンピックに参加します。そこにスポーツの大きな可能性を感じます。
――その一方で「トランスジェンダー女性が女子種目に出場するのは不公平ではないか」という声もあります。
難しい問題ですが、まずは「トランス女性を女性と認識しないことは人権問題だ」という人権感覚から浸透させていかなければなりません。
女性たちが社会の中で抑圧されてきたことを考えれば、「女性アスリートの居場所に、もとは抑圧する側だった男性としての過去を持つ人が入ってくるのか」という考え方になってしまうのも、分からなくもない。
ただ、トランスジェンダー女性は、女性です。その認識を持つことから、まずは変えていく必要があると思います。
現在、世界スポーツ医学連盟はトランスジェンダー選手の参加は「公平だ」と言っています。それでも異議が出ているのですから、科学的に検証してエビデンスを示していくしかないと思います。
そしてもう1つ、とても重要なのは、私たちは様々な不公平がある中でスポーツをやっているにもかかわらず、それが公平であるかのように考える癖がついてしまっているということです。
例えば、バスケットボールやバレーボールでは、背が高いほうが有利です。だけど同じ性別のカテゴリーで競技する場合には「背が高いヨーロッパの人たちがずるい」とは言いませんよね。
経済格差もあります。開発途上国では、施設や器具が不足している場合もあるわけです。
一方、経済的に発展している国や地域では、様々な技術開発にお金をかけることができ、早く走るためのスパイクなども開発されています。しかし、それに対して「恵まれていてずるい」とは言いませんよね。
私たちは多くの不公平に目をつぶっているんです。その中で、なぜか性別にだけはものすごくこだわる、ということの意味を私たちは考える必要があると思います。
――現在スポーツは「男」と「女」でわけて競技することが大半ですが、この性別二元論にとらわれない方法もあり得るでしょうか?
例えば、筋力や骨格、育ってきた経済的な地域の状況などの指標をデータに織り込み、出てきた結果で「この人は様々な複合要因の中で最大のパフォーマンスを発揮している」と測る方法もあってもいいかもしれません。
様々な社会的な要因も含めた上で、最大のパフォーマンスを出して順位をつける方法だと、性別に関係しない競技も可能です。「公平な順位」にこだわるなら、そういう考え方もできます。
スポーツは自由な遊びの世界で、ルールは「上から降ってくる」ようなものではなく、自分たちが作ってきたはずなんです。少なくとも、現在のスポーツのルールは、どれも100年以上かけてそのスポーツを愛する人たちが作ってきたものです。
ですから例えばオリンピックだけでも、そういう競技の仕方をしてもいいのかもしれないですね。パラリンピックのクラス分けは、頻繁に見直されていて手間はかかるけど、これに近い発想だと思います。
――アメリカなどでは、トランスジェンダー女性アスリートを女子種目から排除しようとする動きもあります。何が背景にあるのでしょうか。
アメリカでは、州ごとに法律が作られるのですが、共和党が強い保守的な州でトランスジェンダーアスリートを排除する法律が成立しています。
この背景には、LGBTQ当事者に不寛容な考えを持つキリスト教保守団体がいるなど政治的あるいは宗教的思想との絡みがあります。
日本でも、超党派の議員連盟によるLGBTの人々に対する「理解増進」に主眼を置く法案が検討されていましたが、その議論の中で自民党の山谷えり子元拉致問題担当相が「アメリカなんかでは女子陸上競技に参加してしまってダーッとメダルを取るとか、ばかげたことはいろいろ起きている」と発言し、問題になりました(注記:山谷氏の発言の根拠は明らかになっていない)。
根底に、異性愛者・シスジェンダーを前提とする伝統的な家族のあり方を重視する考え方、時代的には古くなってしまった「家族像」があります。だから、性自認にもとづいて性別を変更する、ということ自体を受け入れることができず、わかりやすい例として、男女を区別して行っているスポーツが議論の対象になりやすいのではないでしょうか。
また奨学金をめぐる議論もあり、トランスジェンダー女性のアスリートが勝つことで、シスジェンダー女性が奨学金をもらえなくなる、と主張する人たちもいます。
シスジェンダーの女性選手よりも強いトランスジェンダー女性のアスリートが目の前に出てきたときに、大きく話題として取り上げられる傾向があると思います。トランスジェンダー女性のアスリートが敗者であるときには問題にされない。
この傾向は、義足を使うなど、障がいのあるアスリートがそうではないアスリートのパフォーマンスを上回るようになった時に、疑問が投げかけられる構造と似ています。
しかし、すべてのトランスジェンダー女性のアスリートが圧倒的に強いという結果はいまのところ、見られないのではないでしょうか。
――日本ではトランスジェンダーアスリートが競技できる環境は作られているのでしょうか?
日本では、トランスジェンダーアスリートの五輪出場が認められていることを、オリンピアン、パラリンピアンでさえ知らない人が多い。
ですから、オリンピックに出場することで、トランスジェンダーアスリートの存在が可視化されることそのものに、意味があると思います。
また、トップレベルのスポーツではまだ知られていない一方で、地域のスポーツ指導者の間では、研修などを通して少しずつ理解が広がっていると思います。
ただ、日本では議論の前提として必要な参加するための「ルール」がない。
トランスジェンダー選手の参加ルールを決めている団体は、日本トライアスロン連合や全日本スキー連盟など少数に限られ、それ以外の団体や、国体やインカレなどでは参加基準がありません。
この点、GID(性同一性障害)学会の医師などに話をうかがったことがありますが「思春期の子どもの中には、自認する性別への適合を望むものの、そうするとスポーツを諦めなければいけなくなる、と苦しんでいる子がいる。その子たちに一定の参加基準を示してあげて欲しい」と言っていました。
医学界の人たちの考える参加のルールと、スポーツ界の人たちが考える公平性のルールは必ずしも一致しないかもしれず、色々な人達が協議を重ねる必要はあると思います。それでもルール作りは不可能ではありません。
むしろ、今はルールがないためにトランスジェンダーアスリートの子どもたちが不可視化されている、と考えた方がいい。
これは女性も同じでした。女性がオリンピックに最初に参加したのは1900年でしたが、オリンピック憲章で女性参加が認められたのは1924年。24年間、ルールがなく正式なメンバーとして認められていないまま参加していたのです。
差別や不平等な扱いを受けている時には、法律やルールの中に存在がないのです。ですからまずはルールを作り、ルールを作ることで土俵に乗り、それから差別を解消する必要があります。
日本スポーツ協会でも少しずつ動きがあるようですし、国体などが動けば、もっとルールが作られていくかもしれません。
――トランスジェンダーアスリートの出場について話す時に重要なことは何でしょうか
この話をする時、私は多くの人たちがトランスジェンダーアスリートが性別を適合するに至る苦しさに想像が及んでいないと思うんです。
トランスジェンダーのアスリートは、自分が自分ではないと感じながらスポーツを続けてきて、そして競技の世界では今まで通りではなくなるけれども、本来の自分になりたいと思い性別を適合させます。
その苦しさの中でのトレーニングと、シスジェンダー女性が苦しみながら続けてきたトレーニング。その努力一つ一つが、同等に比べることなんかできないほど、どれも貴重なんです。
どの努力も、すべてがその人の努力なのであって、それに優劣をつけることは本来できない。
ですからトランスジェンダーアスリートの参加についての議論は、性別適合に至る苦しさや生きづらさを理解できて初めて、対話になるんじゃないかと思います。
Source: ハフィントンポスト
トランスジェンダー選手の五輪出場、専門家はこう見る。「オリンピックは排除ではなく、迎え入れる場所だ」