「トーマス・エジソン」は、アメリカの歴史上、最も成功した発明家の一人です。彼は、まるで無から有を生み出す魔法使いのようなヒーローでした。しかし、そんなエジソンもたくさんの失敗をしてきています。
天才的な頭脳を持っていたエジソンの失敗作7つを海外メディア「smithsonianmag」が解説しています。
*Category:テクノロジー Technology|*Source:smithsonianmag,wikipedia
エジソンの失敗作は以下の通りです。
エジソンが初めて特許を取得したのは「電子式投票記録装置」です。この装置は、法案に投票する政治家が中央の記録装置に投票し、自動的に集計を行うものです。
エジソンは、この発明によって議会で使う時間を数時間節約できると夢見ていました。エジソンは「これで一財産を築いたと思った」と後に振り返っています。
しかし、この投票記録装置をワシントンへ持って行くと、政治家たちはエジソンの予想とは違った反応を見せます。彼らは、この装置を見て「いい加減にしろ」と拒絶したそうです。政治家は、立法過程で行われる票のやりとりや駆け引きに支障をきたすことを恐れたのです。
この出来事以降、エジソンは「市場がない技術は発明しない」と誓います。当時のエジソンは若く、経験も浅かったのですが、この失敗によって自分の発明を売ることができなければ、お金にならないということを理解したのです。
19世紀後半、鉄道会社などの拡大とともに、手書きの書類を何枚もコピーでき、管理部門の従業員が仕事を迅速にこなすための道具の需要が高まりました。そこで登場したのが「電気ペン」です。
電気ペンは、小型の電気モーターと電池を使い、手持ちの針を上下に動かして文字を書く装置です。そして、インクを押し出すのではなく、紙の表面に小さな穴を開け、その上にインクを転がすことで、その下にある白紙に文字を印刷します。
1875年、ペンの製造を始めたエジソンは、代理店を雇って大西洋岸中部を中心にペンを売り始めました。エジソンは代理店に1本20ドル(約2,800円)を請求し、代理店は30ドル(約4,300円)でペンを販売しました。
この発明の最初の問題は、純粋に外見的なものでした。電気ペンは音がうるさく、従業員がそれまで使っていたものよりもずっと重かったのです。
しかし、エジソンが音や重さを改善した後も、問題は続きます。電池は、面倒なことに瓶に入った薬液で管理しなければならなかったのです。
1877年、エジソンは蓄音機のことも考えていました。そこで、このプロジェクトを断念し、ウェスタン・エレクトリック・マニュファクチャリング社に譲渡しました。エジソンは、1880年代初めまでペンの使用料を受け取っていました。
電気ペンはエジソンにとってホームランではありませんでしたが、他の革新的な技術者の道を開いたのです。アルバート・B・ディックは、このペンの特許技術の1つを購入して、謄写版を作っています。ちなみに、電気ペンは、現代のタトゥーの針の前身と考えられています。
エジソンは1888年に最も成功した発明の1つである蓄音機をデビューさせました。エジソンは「この機械は私の子供で、大きく育って私の老後を支えてくれるでしょう」と述べています。
しかし、完成した機械を市場に送り出すまでには、10年近くもかかり、試行錯誤を繰り返しています。
また、1870年代、エジソンが録音の研究に参入したのは、ある意味偶然でした。初期の電話機は言葉を電磁波に変換するために薄い振動板を使っていました。そのプロセスを逆にすれば、言葉を再生できないかとエジソンは考えたのです。そして、それが上手くいったのです。
当初は、紙テープや溝付き紙テープをモデルにしていましたが、やがてアルミホイル製の円盤に移行しています。
エジソンは「ティンホイル蓄音機」という手回し式の機械を開発しました。この装置は、機械に向かって話し、ハンドルを回すと、金属の点が円盤の溝を描きます。
そして、円盤を元の位置に戻し、もう一度ハンドルを回すと、機械から声が返ってくるという仕組みです。
この発明がエジソンの名を一躍有名にしたといわれています。エジソンは、東海岸を中心にデモンストレーションを行い、ホワイトハウスのヘイズ大統領を訪問したこともあります。
また、エジソンは、オルゴール、しゃべる時計、人形、言語教育用具、盲人用のしゃべる本などを考えていました。
しかし、明確なマーケティング戦略がなかったため、この装置には目標とする目的も顧客もいなかったのです。この機械に投資したのは、目新しさを楽しむ余裕のある人たちと、その背後にある技術に興味を持つ科学者の2つの小さなグループだけでした。
そして、この機械には技術と耐久性が必要でした。ティンホイルシートは繊細で傷つきやすいため、1、2回しか使えず、長期間の保管はできなかったのです。
しかし、10年後、エジソンはこの機械に再び取り組み、マーケティングと媒体の両方に力を入れ、最終的には蝋の円筒に変えて、この発明を軌道に乗せます。
1887年末、ニュージャージー州ウエストオレンジに研究所を開いたエジソンは、新しい発明を素早く生み出し、それを工場に渡して製造・販売し、その売上を研究所に戻したいと考えていました。
当時のエジソンは、複雑な発明をするのではなく、短時間で利益を上げられる発明をしたかったのです。
その最初の試みが、おしゃべり人形です。エジソンは蓄音機を小型化し、ドイツから輸入した人形の中に仕込みました。
当初は1888年のクリスマスに間に合わせようとしましたが、生産上の問題で1890年3月まで市場に出すことができませんでした。
販売後もこのおもちゃは返品されました。なぜなら、消費者から「もろすぎる」「少女の手にかかるとすぐ壊れる」「階段でちょっとぶつかっただけで外れる」などの苦情が寄せられたからです。また、「1時間も使っていると声が小さくなる」という声もありました。
その上、この人形は、決して優しい声ではなく「ぞっとするような声だった」ともいわれています。
そして、エジソンは消費者に出荷されてから1ヵ月も経たない4月に、この人形を市場から回収しました。この迅速な対応は、エジソンの失敗に対する姿勢と、失敗に直面した時の対処法を最もよく表しています。
エジソンは、何年にもわたって全米の鉱山労働者と連絡を取り合っていました。
東海岸、オハイオ、ペンシルバニアにある鉱床には、非鉄の岩がごろごろしており、鉱石を製錬する前に取り除かなければなりませんでした。
1890年、エジソンは、強力な電磁石で岩石から鉱石の微粒子を分離し、2つの容器に分けることができる鉱石分離機を思い描きました。
そして、東部の鉄鉱床で20台以上の小規模な鉱石分離機がテストされました。
さらに、エジソンは1日に5,000トンの鉱石を処理できると思われる大規模なプラントをいくつか建設しました。その後、いくつかの小規模な実験プラントを閉鎖し、ニュージャージー州オグデンズバーグの近くにプラントを建設し、約76平方キロメートルの鉱区を手に入れました。
しかし、この工場は、当初から問題がありました。
1894年に完成した巨大な破砕ロール(6トンの岩石を破砕するためにエジソンが開発)は、当初はほとんど役に立たなかったのです。また、エジソンが設計を見直すうちに、工場のエレベーターが老朽化していることがわかり、エレベーターを新しく作り直さなければならなくなりました。
エジソンは、この研究所をなかなかフル稼働させることができなかったのです。エジソンは粉砕から分離、乾燥まで、すべての工程で何度も何度も機械を作り直しました。その結果、エジソンも投資家もその費用を捻出することができなくなったのです。
結果として、この鉱石粉砕機・分離機は失敗に終わり、エジソンはこの事業を10年がかりで手放しています。
1900年代、エジソンのナショナル・フォノグラフ社は、音楽などのエンターテインメントを家庭に持ち込める、安価な機器を数多く開発していました。
エジソンをはじめ、ビクター社、コロンビア社などの大手蓄音機メーカーも、蓄音機と再生するレコードを製造していました。
エジソンは自社のレコードが優れていると信じており、それを証明するためには、購入者に自社のカタログをもっと見てもらうことが唯一の方法だと考えていました。
そこで1922年、エジソンはクラブを立ち上げ、毎月20枚のレコードを郵便で送りました。そして、2日後にその中から注文したいレコードを選んでもらい、次の人に送るというシステムを運用しました。
このサービスは、ニュージャージー州の小さな規模ではうまく機能しました。
一方ビクター社、コロンビア社は、効果的に全米に広がる大々的な広告キャンペーンを展開しようとしていました。エジソンには、全国規模で広告を展開する資金が無かったため、ほとんどの市場が地元か地域でした。
そんなエジソンは、レコードや機器を店やアイスクリーム屋、床屋に置いて実演し、店主がエジソンに購入希望者の名前を送るという副販売店計画を実施しました。
しかし1880年代、1890年代に、このような考えは急進的で、成功しませんでした。現在のマーケティングは広く行うことが常識になっていますが、当時はマーケティングの方法もバラバラだったのです。
エジソンは、映画用カメラで成功を収めた後、1912年に非商用向けの映写機を発表しました。教会や学校、市民団体、家庭で重要な教育ツールとして使えると考えたのです。
しかし、この機械はあまりにも高価であったため、顧客にとって魅力的な映画のカタログを作るのに苦労しました。
販売店に出荷した2,500台のうち、売れたのはわずか500台だったそうです。
家庭用映写機が抱えていた問題は、エジソンが他のプロジェクトで直面した失敗と同じようなものでした。エジソンが発明したハードウェアは非常に優秀ですが、ソフトウェアには問題がよくあったのです。
例えば、ティンホイル蓄音機を駆動させるシリンダープレーヤーは見事に動作しましたが、ディスクには問題がありました。映写機は、プレーヤーではなく、フィルム自体に欠陥があったのです。
そのため、エジソンは、映画製作を行い、カタログにドキュメンタリーからコメディ、ドラマなどを追加しました。
1911年、彼はこの事業で年間20万ドルから23万ドルの利益を上げました。この価値は現在のドル換算で510万ドル(約7.3億円)から580万ドル(約8.3億円)です。
しかし、1915年になると、人々は教育映画や短編映画よりも長編映画を好むようになりました。ただエジソンは、なぜかそれを実現しませんでした。販売店の中には「あなたは、人々が見たい映画をリリースしていない、それが問題です」と、エジソンにはっきり言った人もあったそうです。
このようにエジソンは、成功だけではなく多くの失敗をしてきました。しかし彼は、失敗について聞かれたとき「私は1万回失敗したのではなく、うまくいかない方法を1万個見つけることができたのです」と答えています。この失敗を恐れない姿勢が、発明王と呼ばれる所以なのかもしれません。
オリジナルサイトで読む : AppBank
発明王トーマス・エジソンの「失敗作」7つ