フリーランスで育休取得。実感した「ケアリング・マスキュリニティ」という“男らしさ”

第2子が生まれ、2022年1月末まで育休を取っていた。と言っても、僕は会社員ではなくフリーランスのライターだ。会社員なら受け取れる育休給付はなく、収入がなくなった。分娩の入院にミルクやオムツと、出費ばかりがかさむ。

それでも育休を取ってケアにいったん集中しようと思った。8年前に第1子を迎えたとき、「有害な男らしさ」が足かせとなって自分が鬱になった経験があったからだ。 

「仕事も育児も全力で取り組まなければ」

8年前の僕は頑張っていた。

「父親として仕事をもっと頑張らなければ」

「強い男であらねば」

「育児にも全力で取り組まなければ」

しかし、仕事をしながら育児というケアをするのは難しい。

なぜなら、仕事は生産性や効率性を求め時間を圧縮して詰め込んでいくが、ケアの時間は圧縮できないからだ。

親がどれだけ頑張っても、首がすわる時期や寝返りを打つ時期はほとんど決まっている。小学校に入るのは7年後で、成人するのは18年後だ。だから、子どもに流れている時間へと寄り添うしかない。 

腕の中で新生児は、ゆっくりとミルクを飲む。最初は20mlから始まり、生後2週間で100mlまで増えた。全身のエネルギーを口に集中させ、長いときには30分ほどかけて飲む。

「ミルクを戻していないか」「苦しそうにしていないか」「おむつは汚れていないか」と、いつでも緊張を維持しておく。通常は3時間間隔でミルクを飲むが、うんちをすれば、お腹が空きやすくなる。新生児は、昼夜問わずに突然泣き始め、ケアを要求する。

こちらは、抱っこして泣き止むのを待つ。部屋の温度・湿度を適正に保つ。ミルクの量の増減をこまめに調整する。ケアは受動の積み重ねで成り立っているのである。それに、毎日完璧な育児をすることはできない。子育ては、親として完璧でない自分を、毎日受け入れ続ける営みでもある。余裕がなくなっていく。

だから、第2子が生まれるときには、ケアをまず生活の真ん中に置きたいと思った。

男性が育児をするときに陥る罠

いまの日本の社会において男性が育児をするとき、「有害な男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)」に起因して、いくつかの罠が生じるように思う。

ひとつは「仕事にもっと熱中してしまうこと」だ。

子どもが生まれたことで肩に力が入ってしまい、育児よりも仕事に重心が偏ってしまう罠である。僕自身も8年前には、「家族を守るために」と、猛烈に働いた。しかし終電まで働いて帰ると家族は寝入っていて、疲れていて夜泣きの対応もできない事態に、むなしさを感じた。

次に「セルフ・ネグレクト」である。

仕事も育児も頑張っていると、自分自身がおざなりになってしまう。「命を懸けて守りたい」と思うのはいいが、本当に命をかけて全速力を出したら、マラソンのように続く子育てを走りきれないのは当然だ。

第1子が0歳のとき、僕は鬱になって休職した。そうした2つの「罠」が絡み合った結果だった。

これらは構造的な問題でもある。いざ「育児をしよう」と思っても、長時間労働では難しい。30年も長引く不況で、働いても給料が上がらないから、厳しくても働かなければならない。

仕事をしながら育児を両立しようとしても、その構造的な問題がまだまだ可視化されていないため、理解を得にくい。両親学級や病院、保育園に行っても「ママは?」と言われてしまうし、ベビー用品店に行けばパッケージに描かれているのは「ママ」ばかりだ。 

ケアリング・マスキュリニティを知る

「ケアリング・マスキュリニティ(ケアする男らしさ)」と呼ばれる概念がある。「男らしさ」とは、強くあることや稼ぐことに本来限られないはずであり、ケアしていることを「男らしさ」として捉えるものだ。

EUの政策において、男性の変化を促すための方法が、「男らしさ」そのものを否定するのではなく、従来の男性のあり方に替わる新しい男性のあり方を推奨するというアプローチである。

(笹川平和財団『新しい男性の役割に関する調査報告書-男女共同参画(ジェンダー平等)社会に向けてー』より引用)

これは、状況に適した概念であり、状況に適した「男らしさ」の変化なのではないか。

ケアは、性別に関係なく、すべきものだ。しかしこれまで男性はケアを女性に押し付けてきた現状がある。子育ての場で「ママは?」と言われてしまうのも致し方ない。

以前インタビューした上野千鶴子さんの言葉を借りれば、「『ケアする性』という刷り込みを社会として強化し、女性はケアを押し付けられています」。

だから、あえて「ケア=女らしさ」の構図を崩すためにも、「男らしさ」にケアを含めることには合理性があると僕は感じる。

僕は鬱を経験した。休職中には、子どもをケアすることにしか自分の存在意義を感じられず、生き延びるためにケアをしていた。結果として、ケアが強制的に身についたのは良かったが、できれば鬱になる前にケアリング・マスキュリニティを知っておきたかった。それまでの「男らしさ」を折られるかたちで、ケアを受け入れるのではなく。

こと育児に関しては、特にケアリング・マスキュリニティを生かすことができる。

妊産婦には「障害」が多い。

僕の妻はつわりがひどく、仕事を長く休むことになった。布団から出ることができない。食べ物は、ハンバーガーしか受け付けない。かと思いきや翌日にはパイナップルしか食べられない。

一方の僕は重い荷物を持つことができるし、走って上の子と遊ぶこともできる。出かけて行って、ハンバーガーとパイナップルの両方を買ってくることができる。

臨月になってくると、靴下を自分では履きづらくなる。靴下は、履かせられる人が履かせればいい。

女性が出産で受ける身体のダメージは、全治1、2カ月ほどと言われている。産む親と産まない親で子育てをするのなら、少なくとも当面は、産まない親がケアの主担当になるのが自然な判断だろう。我が家の場合はそれが僕であり、男性だった。だから僕にケアのための休みが必要だった。

成長から成熟へと移り変わってきた社会で、ケアの場面は多様にくっきりと立ち現れる。育児もあれば、介護もある。いまの僕にとっては、妻へのケアも重要だ。さらにエッセンシャルワーカーたちへのケアは、コロナ禍を経験している社会全体の課題でもある。

ジェンダーの多様性、男らしさの多様性

ジェンダーの多様性が、少なくともかつてよりは、見えやすくなってきている。「男らしさ」も多様であっていいだろう。

「強くいること」「たくましくあること」「外で稼げること」を男らしさと考えていた時代もあった。しかし、僕らがどれだけ強くたくましくいても、個人にコントロールできる領域はとても小さい。そんな画一的な男らしさは、いまとなっては幻想だ。

収入が一時的になくなっても、強くなくてもいいから、僕はケアをしようと思った。

もちろん、男性が外でお金を稼いできて、ケアを女性に依頼するのも多様性のひとつだろう。しかし少なくとも、それが構造的な差別や押し付けを含んでいる可能性に、目を配らせたいものだ。 

ほかには、どんな「男らしさ」があるだろう。「男らしさ」の多様性に目を向け、実践することで、娘と息子が生きる未来をマシにしたい。 

(取材・文:遠藤光太 編集:毛谷村真木/ハフポスト日本版) 

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