「怒っていい社会にいる」という心地よさ。気候変動アクティビストが感じた日本と世界の温度差

「ここでは、こんなに自由に怒っていいんだ……」

COP26(国連気候変動枠組み条約締約国会議)で海外のアクティビストたちとのストライキに参加して思ったのは、「怒っていい社会にいる」という心地よさだった。

気候変動対策の不十分さに対する怒りをオープンに表しても、それを受け止めて一緒に怒ってくれたり、なんなら賞賛してくれたりする人々。こんな社会ならば、声を上げやすそうだと感じた。

COP26の現場でみた「脱西洋中心主義」

グレタ・トゥーンベリの学校ストライキをきっかけに、気候変動対策を求めて始まった運動「Fridays For Future(以下FFF)」の日本のメンバーとして、2021年11月、イギリス・グラスゴーで開催されたCOP26に参加してきた。

言語の壁や地理的制約などにより、普段あまり直接的な交流がない、世界中のアクティビストたちに出会うためだ。また、石炭火力発電を利用し続ける日本の気候変動政策の現状を世界に訴えたいという思いもあった。

COP26現地では、各国のアクティビストたちにひたすら圧倒された。

ニュース映像で見るような大規模なマーチに加えて、若者たちは円になって互いの渾身のスピーチに声援を送りあっていた。「変化はCOP(会場)の中ではなく、ここ(市民や若者)から起きるんだ!!」と声を上げる。カラフルなプラカードを持ち、音楽やアートを沢山取り込んだアクションをあちこちで展開していた。

そして、今回もっとも顕著に感じたのは、世界の若者たちによる気候変動運動が、今までの西洋中心的な姿勢を反省し、変化しようとしていることだった。

FFFが主催するアクションでも、マイクを握るのは主にアフリカ・中南米、アジアや、先進国の中でも有色人種のアクティビストたち。

彼らはMAPA(Most Affected People and Area・最も影響を受ける地域や人々)と呼ばれ、グローバルサウスや貧困層、女性など、気候変動でもっとも被害を被りやすい者として声をあげていた。

剥き出しの怒りに触れ、心が震えた

日本での報道ではやはりグレタがフィーチャーされることが多かったと思うが、FFF主催の記者会見ではグレタは一度もマイクを持たなかった。かわりにボツワナ、南アフリカ、フィリピン、メキシコ、アルゼンチンといった国々のアクティビストたちの声が響いた。

彼らは鋭く指摘していた。気候変動とは「民主主義」の問題であり、「南北格差」の問題であり、「植民地主義」の問題だと。植民地支配は終わったが、旧宗主国である先進国によって資源や労働力は搾取され続けてきた。自然を無尽蔵なものとして使い果たす植民地主義的なシステムによって気候変動は引き起こされた。そして現在進行形で、それは続いていて、その悪影響をより激しく受けるのは、旧植民地側の人々なのだ。

だからこそ、不正義なシステムを「Uproot=引っこ抜く」必要がある。彼らはそう叫んでいた。

僕は心が震えた。

友達同士になると、彼ら彼女らは変顔で写真を撮ったり、音楽をかけて一緒に踊るのが好きなただの同世代の若者だった。

しかしひとたびマイクを持つと、命の危機を感じながら気候変動から市民が守られるべきだと訴えている。コロンビアやメキシコなどの国では、環境アクティビストであるだけで命を狙われる危険性もあるのだという。

どうしてこんなに剥き出しに怒れるんだろう? 

いつのまにか僕の心にそうした疑問がよぎった。そしてすぐに答えがでた。

それは、彼らの主張を受け入れる聴衆の存在だ。

オープンに、不公平な社会システムに対して「おかしい」と声を高らかにあげる若者たち。その存在を受け入れ、歓迎し、賞賛する社会に短期間でも身を置いて、僕は不思議と「心地よさ」を感じていた。今まで日本で経験したことのない「安心して怒ってよい」環境。自分の感じている違和感を隠さず、オープンに共有し、励ましあえることが出来たことがとても嬉しかった。

いつまで「怒る若者」と呼ばれるのか

「ありのまま声を上げることができる心地よさ」は一方で、僕に大きな宿題を残すことになった。

彼らと同じように日本でスピーチをしても、届き方に限界があるということに、気づいているからだ。

「怒り」で人を動かせないもどかしさを、これまで何度も感じてきたし、だからこそなるべく客観的データで裏付けたり、希望のあるメッセージを出したりと心がけてきたけれども、まだまだ個人としても日本の気候変動運動としても全然試行錯誤が足りていないと思う。

そもそも、僕たちはいつまで、「怒る若者」と表現されてしまうのか。

COP26期間中、岸田首相に直接手紙を渡そうと試みたり、化石賞を受賞した日本政府に対して抗議のスタンディングなどを行った様子は、多くのメディアで「怒る若者」と描写された。

それに対してアンチコメントが相次ぎ、一緒に現地入りしていた高校生のメンバーもかなり疲弊していた。批判やアンチにばかり目を取られて、応援してくれている人たちの声が見えなくなるのはよくないが、僕たちのアクションが「怒り」という形で切り取られてしまうことで、対話の余地がなくなっているのではないかとも懸念する。

「怒り」がなかなか受け入れられづらい社会なのに、何かをすれば「怒る若者」と切り取られしまう。乗り越えるべきミスマッチが至る所にあるが、何とか、日本の文化によりフィットしたアプローチも模索し続けなくてはならないのだろう。

悲観よりも、ポジティブさを

今回、COP26に参加をする中で、可能性を感じたアプローチがある。悲観や嘆きよりもポジティブさを語る姿勢だ。

気候科学者のヨハン・ロックストローム博士と会談した時のことだ。彼は気候変動に歯止めがかからなくなる臨界点を越した世界「ホットハウス・アース」の概念などを提唱し、気候変動の脅威を訴えてきた人だ。

https://twitter.com/HuffpostJ_SDGs/status/1462714976251138052?ref_src=twsrc%5Etfw

何年にも渡り気候変動の深刻さや世界の対策の遅さを目撃してきた彼に会うと、想像以上にポジティブで驚かされた。その理由を聞くと彼はこう語った。

「今までにないほど、気候変動の影響を心配している。ただ同時に、今までにないほどこれから起きる変化に希望を感じている」

「この2年間の(国際社会や産業界の)変化で、世界では気候変動への対策を取ることが確実に世界をよくするという『勝利のストーリー/Winning Story』が出来上がった」

ロックストローム博士によると、これまで、世界では、石油などの化石燃料を巡って紛争が繰り返し起こってきた。しかし、化石燃料依存の社会から、再生可能エネルギー中心の社会に切り替える事が出来れば、紛争の火種を無くし、国々が自立することが可能になるのだ。

誰よりも気候変動の危機を体感しているであろう博士の前向きな語り口にヒントを感じた。

日本なりのアプローチを、探していく

気候変動コミュニケーションについて書いた“How Culture Shapes the Climate Change Debate”(邦訳:文化はどのように気候変動の議論を作り上げるか)で次のような示唆に富んだ指摘がされている。

私たちは自分が科学者のように論理的にデータやモデルを分析して納得しているように思っていますが、実際は弁護士のように、ある決まった結論にたどり着くように理由づけをしています。多くの場合その結論は、私たちの価値観や文化的な背景に大きく左右されます。(Hoffman 16)

つまりは、文化的なコンテクストや価値観にそぐわないメッセージを受け取ることは難しいし、裏を返せば、そこに沿った発信ができれば届く可能性があるということだ。

思い返してみると、グラスゴーでは、アートや音楽など様々なアプローチで気候変動について伝えようとしてきた人たちの蓄積を感じた。沢山の人々の試行錯誤が今のムーブメントを支えているし、問題意識が通じやすい土壌に繋がっているのかもしれない。

日本にも、日本なりのアプローチと積み重ねが必要だろう。

例えば日本の象徴でもある桜。気候危機はそれを脅かす。気温上昇によって冬の気温が十分に下がらないと、桜の開花メカニズムが異常を起こし開花しなくなる可能性も指摘されている。

古くから詩歌で語られ、日本の季節感や美意識に強い影響を与えてきた桜が過去のものになるかも…というストーリーは、もしかすると北極の氷やアマゾンの森林よりもリアリティを持てる人が多いかもしれない。

一例ではあるが、このような切り口で考えると気候危機が日本人のアイデンティティを根本から脅かす問題であることが伝わると思う。

他の国や文化圏のやり方をそのまま転用しようと試みるだけでなく、より多様なアプローチを試すことで、さらに変化を起こせるポテンシャルがあるはずだ。

地球規模の緊急事態に対して、自分たちなりのアプローチで変化を起こすという”成功体験”を得ることができたなら、「おかしい」現実に対して「おかしい」と声をあげる人たちが抑圧されず、守られる社会に一歩、近づくことができるのではないか。

「怒ってもいいんだ」というあの“心地よさ”を、もっと早く、日本にも広げることを目指したい。

(文:酒井功雄 @IsaoSakai3/企画・編集:南 麻理江 @scmariesc

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