高校生の時、友達との外食が“憂鬱”だった。
メニューを開いて悩み、料理を決めて注文する。まるで見えているかのように。
本当は、目が悪くて、何が書かれているのか見えない。それを友達に知られたくなくてメニューは事前に調べていた。
当時は「見える人」を演じていたと、視界の“95%”が見えない「ブラインドスケートボーダー」の大内龍成さん(21)は明かす。
進行性の目の病気が、高校時代に急に悪化した。朝飯前だったトリックも、全然決まらない。プロのスケートボーダーという夢も、自分の人生そのものも、見えなくなった。
自暴自棄になっていた時。同じように視覚障害がありながら白杖を握って自在に駆けるスケートボーダー、ダン・マンシーナの存在を知った。
頭をガツンと、殴られたような気がした。
「スケートボードのためだったら、杖を使うことができる」
彼の存在に後押しされ、「見えない人」として生きることを決めた。
スケボーとの出会い「シンプルに好き」
東京オリンピックの日本勢の活躍で、一躍注目を浴びたスケートボード。大内さんが始めたのは中学3年。友達に誘われ、一気にのめり込んだ。
最初は、幅数センチの角材を地面に置いて、その上を飛ぶ練習から。ボードと一緒にジャンプする「オーリー」という技で、さまざまなトリックの基本だ。
「初めて飛べたのは、始めてから2週間くらい。めちゃくちゃ練習しました。たかが3センチ角の角材を飛ぶのにも1か月かかります」
「他のこととは違って、スケボーをした時に何よりしっくりきて、これだよこれみたいな。シンプルに『好き』という言葉が当てはまった感覚です」
転倒は日常茶飯事で、あざや生傷は当たり前。
「血を出るまで滑ってるんだから、トライしてるトリックは絶対にやらなきゃいけない。そういう思考でスケボーをしていました」
友達や恋人から心配されても、大内さんにとっては難しい技に挑戦している“証”と捉えていた。
親は反対。後々、理由を知った
両親は当初、スケボーをやることに強く反対していたという。
全て「自己責任」という条件で、どうにか許しを得た。
「それだけやりたいなら頑張れるだろうから、お金を出したりして助けない」と突き放され、スケボーを買ってもらえなかった。
周りのボーダーから使い古しの部品や板をもらい、自前のボードで滑っていると、根負けしたのか親が買い与えてくれた。
「なんでそんなに反対するんだよ」
当時は親を恨めしく感じていた。後々、厳しい態度には理由があったのを知った。
「俺の目の病気は、紫外線を浴び続けると進行が早くなると言われていました。親はそれを気にして反対していました。『紫外線で目が悪くなるという状況では、最初はスケボーを認められなかった』と後々聞いて、やっぱりそうだよねって」
やっぱり、自分は目が悪い
大内さんが小学1年の時、病気が発覚。網膜に異常をきたす「網膜色素変性症」と診断された。4000〜8000人に1人が発症すると言われる難病だった。
病気が発覚した小学1年で、今後目が見えなくなるかもしれないと両親から伝えられた。年齢を重ねてから知らされる方が、よりショックを受けるだろうと考えての判断だったという。
大内さんの視力は、小学6年ごろまでは「免許が取れるくらいの視力」。そこから徐々に悪くなっていったが、スケボーを始めた中学3年は「なんとか見えていた」という。
紫外線を避けるため、帽子とサングラスをつけて、日々スケボーの技を磨いた。
「仮に自分の目を悪化させるとしてもスケボーがしたかった。ちょっと大げさかもしれないですけど、人生をかけるというか。本当に昔からプロになりたい、有名になってこれで飯を食ってやるんだ、とずっと思っていました」
ところが、高校2年ごろから症状が一段と進行し、セクション(台)との距離感やタイミングが合わせられなくなった。
「見えない恐怖で、攻め込めなくなりました。今までは朝飯前にできたトリックが、なぜできないんだろう。ショックでした」
やっぱり、自分は目が悪い。やっぱり、プロにはなれないのかも。
受け入れ難かった。
「スケボーだけをして勉強もしなかった。自分の中からスケボーがなくなったときに、人生が見えなくなってしまったんです」
喪失感から、心が荒んでいく自分を止められなかった。
「誰も俺のことなんて分かっていない。代われるなら代わってみろ」と、心配する家族や恋人、友達に、怒りの矛先を向けた。
ブラインドスケートボーダーになった日
スケボーへの情熱が失われたまま、1年以上過ごした。
大内さんは車が好きで、18歳になったら運転免許を取ると決めていた。
目の病気が進行すると、「免許はとらなくていいかな」という他人の会話を聞くだけで、「贅沢を言うな」と許せなかった。
「本当にムカムカしながら生きていました。スケボーがない状態で、どうやって自分を表現すればいいんだろう」
「人のことを陥れるようなこともしたし、傷つけました。本当の俺がどこかに行っちゃっていました。迷惑をかけて申し訳なく思っています」
みかねた友人から、ある動画を見せられた。
白杖でセクション(台)の位置や距離を測りながら、見事にトリックを決めるダン・マンシーナが映っていた。
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大内さんと同じ「網膜色素変性症」の、アメリカのブラインドスケートボーダーだ。
友人から「こういう人がいるけど、お前はどう思う?」と檄を飛ばされた。
「見えなくなったのは大変だと思うし、絶対につらいけど、そのせいにするなよ。スケボーをするかしないかはお前の選択だろう。嫌いになったんだったらやめろ。でも、好きなんだったらやれよ」
やっぱりまだ、スケボーが好き。自分の気持ちを再確認させてくれた。スケボーを続けるために、握りたくないとずっと拒んでいた杖を握った。
「見えなくてもやっている人もいる。本当に情熱があれば俺もマンシーナのようにするはず。『ちょっとやり直すわ』と言って、杖をついて、ブラインドスケーターとしてやっていったんです」
「見える人」を演じてた。白杖を握りたくなかった
ブラインドスケートボーダーになったことは、心の持ちようや、日常生活も大きく変えた。
目がだいぶ悪くなっていた高3の終わり。
「目が悪いことを自分自身で認めたことになってしまう」という気がして、どうしても、白杖を握りたくなかった。
人前では見えないことを隠した。
「友達とお店に行ったら、メニューを開いて、見えていないのに見えているふうに悩んでから頼む。見えないことを誰にも悟らせないような動きはどうしたらできるか。めちゃくちゃ変な努力をしていたんです」
ダン・マンシーナを知ったことで、「見えない自分」を隠そうとする“努力”をやめた。
「またスケボーをすると決めたときに、もうごまかしきれないと感じたんです。でも、とうとう認める時がきたんだ、と」
「スケーターとしての変化のタイミングをくれたのもダン・マンシーナだけれど、『見えない人』として、視覚障害者として変わったタイミングも、彼が生み出してくれたんです」
「白杖を使うことにした」と親に伝えると、とてもほっとした様子だった。それ以上に安堵したのは自分自身。そこから、生きることが楽になったという。
「自分は普通じゃない」と自暴自棄になっていた時。先輩から言われた言葉が、今も強烈に記憶に残っている。
「普通って何だ?その人が定める普通は違うから、他人と比較するなよ。周りから見たらみんな普通じゃないんだよ。普通じゃないって最高だろう」
取材で知った両親の気持ちやルーティン
ブラインドスケートボーダーとしてメディア取材の機会が増えると、両親の本心を知ることもできた。
両親が同席した取材で、初めて知ることがたくさんあったという。
スケボーに干渉してこないことに「親は俺のことを認めてくれていない。スケボーをやめさせたいんだろう」と、大内さんはずっと思っていた。
両親は、大内さんが熱心にスケボーに取り組むのを見て、考えが変わっていったという。
「はじめは、しばらくしたらスケボーをやめるだろうと思っていたようです。どんどん本気になっていった時、『何かあったときに私たちが龍成を守ればいい』という話になったらしいです」
大内さんがスケボーに行くとき、親が毎回していた「ルーティン」も知った。大内さんの保険証と診察券をテーブルの上に出して、休日であれば、救急外来の当番医を調べていたという。
思い返せば、スケボーでけがをして家に帰ると、驚くような手際の良さで病院に連れて行ってくれた。
「そういう話を聞いて、親は認めていなかったんじゃなくて、あえてそういう風にしていたのかなと。裏ではいろいろと支えてくれていました」
現在は、大内さんの活躍を見たアパレルブランド「NESTA」から声がかかり、契約ライダーとして活動している。
加えて不定期の撮影代や障害年金と合わせても、生活していくには足りず、鍼灸師の資格を取るための学校にも通っている。
見据える「競技化」。誰かの夢を支えるために
埼玉県所沢市のスケートボードパーク。
大内さんはボードを走らせながら、白杖を左右に動かしてコース取りや段差の位置を確認する。角度のついたアール・ランプ(傾斜)からスピードに乗ったまま、段差に飛び乗り、端部分にボードを滑らせるグラインド系のトリックを披露してくれた。
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日本にはロールモデルがいない。目の悪い人が滑りやすい「パーク」もない。
大内さんは、自分の活動を通してブラインドスケートボードを知ってもらい、「競技人口」を増やしたいと考えている。その先に「競技化」も見据える。
東京オリンピックでの日本勢の活躍やカルチャーで、スケボーは一躍注目を浴びた。解体予定だった競技会場の存続も決まり、追い風も吹く。
大内さんはInstagramに自身のスケボー動画を積極的に投稿。数々のトリックを決める動画は12万回再生された。
動画をきっかけに、大内さんと同じ目の病気の子が、スケボーを始めたこともある。その子の親が、目の悪い人向けのスケボーパークを作ろうと、計画しているという。
大内さんも目の見えない人が滑りやすい環境がないと感じており、力になりたいと考えている。
「岡山県でパークをつくりたいと言ってくれています。コンセプトは、見えない人でも本気で滑ることができるスケボーの環境。パークの設計で手伝って欲しいと言われています」
「自分は一般のスケボー業界に馴染むように努力しましたけれど、せっかく競技化するのであれば、周りに“余計な努力”はさせたくない。それより、ひたすらスキルを磨いてほしいです」
両親や友人が人知れず背中を押してくれたように、いつか自分も、誰かの夢を支えられたらと思っている。
見えるスケーターから、見えないスケーターになった。両方を知っているからこそ、伝えられることがある。
【大内龍成(おおうち・りゅうせい)さんがスケートボーダーの活動をつづるInstagram】
(取材・文:浜田理央 / 撮影:渋谷純一)
Source: ハフィントンポスト
「見える人」を演じてた。拒んだ白杖、高3で握ったスケートボーダーの決意